午前7時40分、朝モヤの曇り空の朝、一行はチェックアウトを済ませ、バスへと乗り込みました。しかし、随行員とカメラマンの姿が見当たりません。二人は前日の夜行列車の疲れからか爆睡中で、服務員のドアノックと同時電話で飛び起き、大慌てでバスに乗り込んできました。約10分の遅刻でした。(この日のモーニングコールが鳴らず、随行員としては誠に恥ずかしい限りで、皆様には心よりお詫び申し上げます)
バスは前日と同じ麦積山方向へと進み、やがて陝西省宝鶏市に向かう全長約131キロメートルの高速道路「宝天高速」へと入って行きました。「渭水」の濁った流れに沿って道路は緩い下り坂で、やがて周辺は険しい山岳地帯へと変わり、トンネルが次から次へと現れました。その内の一つのトンネル内ではワゴン車が横転しており、人影は見当たらないものの、テールランプがまだ点滅していました。幸い渋滞する程でもありませんでしたが、ガソリンに点火しないか、恐ろしい光景でした。しばらく走行すると、今度は「麦積山隧道」という全長13キロメートルの長いトンネルに突入していきました。このトンネルを出ると、間もなく山岳地帯の多かった甘粛省から平坦な台地の陝西省へと移り行き、徐々に大型トレーラーも増えてきました。一帯は濃いモヤに包まれ、太陽が赤く丸い輪郭が見えることから、どうもスモッグのようでした。
午前11時、バスは高速道路を降り、宝鶏市内にある「宝鶏青銅器博物館」へと向かいました。中国最大の青銅器博物館で、宝鶏市内の「渭水」沿いにある公園「中華石鼓園」の中にあり、屋上に巨大な石鼓を模した近代建物は、2010年9月に新装オープンしたばかりでした。入口で段館長の出迎えを受け、記念撮影を済ませた後、早速、女性案内人について広い館内を見学しました。宝鶏で出土した貴重な青銅器の1400数件が示してあり、その中に国宝級の青銅器が数十件もありました。宝鶏は周秦の文明的な発祥地として知られ、漢代から青銅器が絶えず出土し、数量の大きさ、逸品の数、銘刻の内容の重要さから、「青銅器の故郷」であるとも言われています。帰路、カタログを購入しようと申し出たところ、売店はまだ完成しておらず、カタログもできたばかりとのことでした。
午後12時半、この日は日曜日で渋滞が予想されることから、当初予定の宝鶏市内のレストランでの昼食を諦め、一行は西安市に向かう高速道路「西宝高速」を一気に「法門寺」まで行くことにしました。大型トレーラーが頻繁に行き交う宝鶏市東郊外の高速道路沿いは新築マンション群が林立し、トウモロコシや野菜畑の中には大きな工場群も立ち並んでいました。バスはやがて高速道路を降り、トウモロコシ畑の中を北の「法門寺」へと向かいました。緩やかな上り坂を進むと左前方に赤銅色に輝く大きな観音像や奇抜な建物とともに、「法門寺」の有名な塔が見えてきました。午後1時40分、一行は「法門寺」のゲート前に到着し、門前街のレストランでの昼食となりました。ここは門前街の一角と言うのに閑散としており、サービスも最悪でした。早々に昼食を切り上げた一行は、法門寺の正面入り口へと進みましたが、今度は現地ガイドの艶さんが何やら団体チケットのことでもめていました。正面入り口では個人用チケットしか取り扱っておらず、団体チケットはバス駐車場で販売しているとのこと。一行は段取りの悪さに閉口しながらも大きな柳の木陰で一休みし、艶さんの戻りを待ちました。
午後3時半、一行はやっとの思いで「法門寺」境内に入り、左側にある「法門寺博物館」へと急ぎ、女性案内人の説明を聞きながら、黄金に輝く珍宝類をじっくり見学しました。
「法門寺」は1987年に塔を修復する際に、地下宮殿から仏舎利が発見され、世界の注目を集めました。仏舎利は釈迦入滅後、インドのアショカ王が仏教を広めるために、8万4000に分けて世界に送ったもので、仏舎利を得た地では仏塔を建てそれを奉納しました。しかし、時代を経てほとんど消失してしまいましたが、ここで発見されたものは世界に残る数少ない仏舎利で、指の仏舎利と言われています。本物は現在非公開でその所在は公表されていませんが、仏舎利を入れた箱は法門寺博物館で現在も公開されていました。また、「法門寺」は、唐代、李世民の時代から安史の乱までは中国で一番重要な寺であったため、絹織物・磁器・瑠璃・金銀の供え物など、すばらしい出土品がこの「法門寺博物館」に展示されており、ここでは自由に撮影ができました。
午後4時半過ぎ、「法門寺」を後にした一行は、更に東に位置する「乾陵」へと向かいました。延々とトウモロコシ畑の拡がる丘陵地帯を進んでいくと、正面に小高い山が見え始め、「乾陵」の外城が聳えていました。バスは東門へと回り、弱い夕日に照らされた広大な「乾陵」の参道へと進み、両脇に並んだ様々な人物や動物の石像群、武則天の事績の偉大さは文字では表せないという意味の「無字碑」や「述聖紀碑」等を各自、興味深く見て回りました。それにしても南城門から陵墓に向かう石畳みの参道の規模の大きさに、一行は今更ながら驚かされました。
「乾陵」は西安の西北約80キロメートル、陜西省乾県の北方6キロメートルの梁山にあり、数々の石像に守られ、唐3代高宗、李治(在位649〜683)と女帝武則天(在位690〜705)が眠る唐朝の最も代表的な陵墓です。この雄大な乾陵は、唐長安城を模して建築されたもので、684年に高宗がここに葬られ、706年に武則天が合葬されました。海抜1047メートルに位置し、山沿いに築かれ、二重の周壁をめぐらし、四面に闕門と大型の石刻が置かれています。地下宮殿は盗掘に遇っていないと言われていますが未発掘なので、その実態は不明のままです。
門外には一対の豪壮な石獅子がうずくまり、南側には高宗の葬儀に出席した諸蕃族の酋長と、外国の使者の石人61対が袍を着て拱手する姿で左右に林立していますが、後世の破壊で外国人使者の頭部はすべて欠けています。一説では、清朝の時、旱魃がこの地を襲い、それはこれら使者のタタリだとして村民が石像の首を打ち落としたという伝説が残っています。
午後6時半、一行は「乾陵」を後にし、東南約90キロメートル先の西安市に向かって高速道路「福銀高速」に入りました。強行日程の疲れと心地良い揺れに一行が仮眠中、バスはやがて西安の北西25キロメートルに位置する「咸陽」を通過しました。「咸陽」は紀元前11世紀から周、秦、漢、唐など11の古代王朝の首都またはその畿内にあって栄え、特に秦の始皇帝がこの地に中国の歴史上、初めての封建的中央集権国家を建設したことで有名で、現在は当時の建物が復元されているとのことでした。
西安市に近づくにつれて、高速道路は大型トレーラーや乗用車が行き交い、高速道路の終点・六村堡の周辺では大渋滞となっていました。夕闇迫る西安郊外の新市街地は高層ビルが立ち並び、様々な色のイルミネーションやライトで煌々と照らし出され、北京と変わらない賑やかな大都会の夜の様相を呈していました。
午後8時過ぎ、一行は西安市の中心街にある「西安賓館」での遅い夕食となりました。天水から宝鶏、法門寺、乾陵を経て西安まで約350キロメートル、約12時間の長旅ながら、河西回廊の東の終着点・西安に辿りついた喜びと安どの表情が一行の顔に溢れていました。食が進む内に、日本語の上手な女性服務員から「冬虫夏草」や「漢方薬酒」の試飲を薦められ、調子に乗って次々と紹介されるお土産を買い求め、まるでお互いのテーブル同志で買物競争をしているようでした。
午後9時半、楽しい夕食が終わり、この日から3連泊する東の城門近くのホテル「西安皇城豪門酒店」にチェックインしました。
6日目 「宝鶏青銅器博物館」「法門寺博物館」&「乾陵」見学
7日目 「陝西省考古研究院」「大雁塔」&「陝西省歴史博物館・唐代壁画珍品館」参観
8日目 「西安碑林博物館」「青龍寺」「兵馬俑坑」見学&「修了式」兼「歓送会」
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