8月24日、曇り空の蒸し暑い朝。午前5時20分、一行は元気よくチェックアウトを済ませ、北京首都国際空港へと向かいました。夜明け前の北京市内はまだ薄暗く、人影も車もまばらでバスは順調に走行、途中でホテルの弁当を口にしながら、約30分で空港に到着しました。国内便の出発ロビーは既に大勢の人々で混雑しており、敦煌行きカウンター前も混乱していました。待ち合わせの徐天進教授と杭侃教授の姿が見えずに心配しましたが、既に搭乗手続きを済ませ、搭乗待合席で待機されているとのこと。中国国内便の預託荷物チェックがテロ対策で一段と厳しくなっており、手荷物検査についても緊張しながらの順番待ちでしたが、何とか全員無事、通過することができました。
午前7時前には搭乗開始のアナウンスがあり、乗客は次々とエプロンへと進んでいきましたが、一行の数人が搭乗前のトイレ行きとなり、最後の乗客となりました。急いでエプロンへと進むと、そこは何と搭乗機ではなく、階下には超満員の大型バスが待っていました。(冷や汗!) バスは広大な北京空港内を敦煌行きのCA1287便が待機する駐機場まで進み、定刻より25分遅れの午前7時45分、ようやく離陸しました。
早朝からの慌ただしさにやや疲れ気味でしたが、機内では待望の敦煌行きとあってか、一行の様子は元気そのものでした。眼下に広がる中国大陸は、緑多い平原や山々から、やがて黄土高原の丘陵地帯へと様変わりし、更に広大なゴビ砂漠へと姿を変えていきました。暫くすると左窓からは万年雪を冠した祁連山脈(きれんさんみゃく)が見え始め、右窓からは地平線の彼方まで拡がるゴビ砂漠と小さなオアシス周辺に、整然と立ち並ぶ小さな風力発電機の基地と思われる広大な施設があちこちに見え隠れしていました。
【豆知識】 歴史の舞台となった広大な自然
祁連山脈は、チベット高原の北縁、甘粛と青海に跨り、西北から東南へと走り、数条の平行する山脈より成り立っています。主峰は祁連山で、一部には氷河も発達させた6,500m級の高峰が連なり、「河西回廊」のオアシス都市群、武威(涼州)・張掖(甘州)・酒泉(粛州)・敦煌(瓜州)を潤す内陸河川の水源となっています。
ゴビ砂漠は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万km2で、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在した。また、黄砂とはこの地などから巻き上げられ気流に乗り運ばれる砂の事であり、春先には日本にも多く飛来する。
(ウィキペディア・フリー百科事典より引用)
搭乗機は大きく左に旋回し、砂漠地帯に浮かぶオアシス都市・敦煌に向かって降下し始め、午前10時20分、雲一つない真っ青の空の敦煌空港に無事、到着しました。敦煌空港は敦煌市東郊外のゴビ砂漠のど真ん中にあり、広い駐機場からターミナルビルへは、強い日差しを浴びながらの徒歩での移動でしたが、一行はいよいよ河西回廊の西の果にたどりついたという喜びと感動でいっぱいの様子でした。(万歳!)
敦煌市は海抜1,138メートル、人口約15万、年間降雨量39.9ミリの砂漠性気候のオアシス都市。この日は気温32℃ながら湿度が少なく、ターミナルビル内に入ると涼しくて快適な天候でした。ターミナルビルの出口には大勢の出迎えの人々で賑わっていましたが、一行には敦煌旅行社のガイド・秦さんが出迎えてくれました。早速、バスに乗り込み、真面目そうで日本語の達者な秦さんの敦煌紹介の話を聞きながら、敦煌市の中心街入口付近にある「敦煌賓館」へと向かいました。車窓から見える左側の景色は一面砂ばかりで、ひと際小高い観光名所の鳴沙山(めいさざん)がすぐ近くに見えました。空港からの道路沿線はポプラ並木が続き、市街地に入ると一層緑が多く、オアシス都市・敦煌の魅力を引き立てていました。
一行は一旦、2連泊する「敦煌賓館」にチェックインし、同ホテルのレストランでの昼食となりました。この日も早朝出発でやや疲れ気味ながらも、いよいよ始まる「莫高窟」の見学を前に、一行はやや興奮気味で賑やかな昼食タイムとなりました。昼食後、ふと気が付くとレストランの一角で今や世界的絶滅人種とも言うべき日中の「キツエン族」が美味そうに煙草を吹かしていました。(爆笑!)
午後2時過ぎ、一行は敦煌空港手前にある鉄道の敦煌駅前で右折し、海抜1,400メートルの「莫高窟」へと向かいました。辺り一面は、瓦礫混じりのゴビ砂漠が拡がり、道路沿いに延々と続く鳴沙山の先には、胡楊やポプラの緑の木陰とともに赤茶けた断崖が見え始め、その壁面には大小様々な洞窟が二層、三層になって並んでいました。「胡楊」は「千年は枯れないし、枯れても千年は倒れず、倒れても千年は腐らない」との秦さんの説明に感心していました。暑さを避けた午後からの参観とあってか、駐車場は既に観光バスや乗用車で埋め尽くされており、世界文化遺産の人気ぶりに今更ながら驚かされました。駐車場から強い日差しを浴びながら広い参道を進むと、右側の堅い岩山の三危山とその反対側に砂岩や礫岩の鳴沙山があり、間を枯れ上がった大泉河の流跡があり、その石橋を渡ると写真でも見覚えのある「莫高窟」の山門が見えてきました。
当初、敦煌研究院の樊錦詩院長との面会が予定されていましたが、研究院関係者の不幸があって残念ながら不在とのことで、代わりに女性研究員が一行を出迎えてくれました。「莫高窟」では現在、塑像や壁画を保護するため、参拝者のカメラや手荷物の持ち込みが全面禁止されており、ガイドの秦さんに預けての入場でした。一人一人に狭い範囲内で聞き取れるイヤホンが配られ、女性研究員の独得の言い回しの解説で「莫高窟」の特別参観が始まりました。
緑のオアシスに囲まれた「莫高窟」はすべての石窟の前に壁が設けられ、一つ一つの入口には扉が付いており、三層、四層に重なる石窟のすべてが桟道でつながっていました。石窟群は大勢の観光客にも耐えられるよう、立派な鉄筋コンクリート製の回廊で結ばれ、参観しやすくしてありました。
午後2時20分、先ず、莫高窟のシンボルで一般公開窟でもある第96窟・北大仏殿に向かい、一行は仏殿前の広場で記念撮影を済ませました。この大仏殿は九層の塔で、中には高さ35.5メートルの石胎泥塑の弥勒大仏が安置されており、大勢の観光客が団体ごと順番待ち、下から見上げるように参拝していました。この窟は紀元695年に造営が始まり、その後の千年にわたって何度か修復されましたが、現在の九層の建造物は、1936年に地元の仏教信徒や有力者の資金で立て直されたもので、文化的価値はあまりなく、以前は五層であったとも言われています。
次に、敦煌石窟で二番目に大きい盛唐時代の大仏のある第130窟・南大仏殿に向かいました。窟の中に造られた高さ26メートルの石胎泥塑の弥勒大仏で、ここも一般公開窟のためラッシュアワーのような順番待ちで、女性研究員の「日本のお客さんはどうぞ中におはいり下さい」との声で一行は窟の中に入り、至近距離から仰ぎ見るように参拝しました。大仏の顔面部は窟外の光に照らされ、はっきりとした輪郭と凛とした顔立ちが浮かび上がっていました。
第148窟(盛唐) この窟は涅槃窟で、窟全体が棺桶の形をしていました。涅槃像の手は宋の時代に修復され、長さ15メートル、足と手に金箔が残っていました。金剛力士像の手には蛇、足下には邪鬼と夜叉がいました。洞窟の長さは18メートルで、奥行きが深かったため壁画が鮮やかに残っており、涅槃の意味もわからずに泣いている人などで有名です。
第61窟・第62窟・第63窟(五代) 第61窟の上に62と63窟がありますが破壊されて壁画があるのみでした。第61窟は莫高窟最大の山水人物画で、五台山の伽藍や事跡などをはば13メートル、高さ3.6メートルにわたって描かれていました。飛天が飛んでおり、何故かこの洞窟だけに12星座がありました。
第57窟(初唐)は別名、美人菩薩ぞろいの「美人窟」とも言われています。この窟は第45窟、第285窟、第320窟とともに今回の特別参観窟で、入口には鍵を持った守衛がおり、入場許可された我々日本人一行の19名だけでじっくりと参観することができました。しかし、ガイドの劉建軍さんは中に入れてもらえなかったとのことでした。第57窟の観世音菩薩は、唐時代の菩薩像の中でも最優秀な美人菩薩として知られ、女性研究員は、菩薩像にペンライトを浴びせながら、独得の口調で「これ、本当にきれいでしょ!」と何度も強調していました。また、何故か尼さんの飛天がいることでも有名です。元ロシア人の牢屋として使用されていたためか、残念ながらも入口付近の壁の上部が黒く汚れていました。
第45窟(盛唐)は、塑像の最高傑作が並んでいることで有名です。塑像2400体中一番すばらしいとの評価もあり、ほとんど修復されず、当時のままとのことでした。バランスの良い観世音菩薩があり、体はSの字を描き、目が下の方を見ていてお参りに来た人を見ているようです。天井には41種類の楽器が描かれていました。
第285窟 この石窟はインドの毘訶羅窟から発展してきた禅窟の一つです。中心となる室は長方形や方形で、真正面の壁には龕が設けられ、塑像を安置し、そこで修行者が礼拝するようになっています。両側の壁にそれぞれ二つあるいは四つの小さな室を設け、修行者がその中で座禅し、修行していました。天井を天蓋に見たて、流蘇が垂れているさまが描かれています。鳳や雷光などが天井にちりばめられ、天井基部にギザギザの峰が連続し、その中に修行僧がいます。
第320窟 盛唐期の代表的な窟の一つで、残存する数体の彩塑像は変色しましたが、盛唐の豊満なイメージを留めていました。南壁の「阿弥陀仏経変」の四体の飛天は、同一題材の中でも優れていると言われています。北壁には「観無量寿経変」が描かれ、この時期に流行した壁画の一つ。米国のウォーナー博士の探検隊が乱暴にも勝手に壁画を剥がした跡が生々しく残されており、持ち去られた壁画は現在、ハーバード大学にあるとの事です。
第16窟・第17窟(晩唐) 一般公開窟の第16窟は他の窟に比べて窟内が広く、大勢の参観客で混雑していました。中心には馬蹄の形の仏壇が設置され、後ろに頂上まで届く背屏がありました。壇上の塑像はすべて清時代に製作されたもので、晩唐の壁画は、背屏以外はすべて西夏の壁画に覆われています。清の光緒26年(1900)6月25日、道士の王園禄はこの第16窟の甬道を掃除するとき、窟門の裂け目から偶然蔵経洞を発見しました。窟内には四世紀から十一世紀にかけて(晋から宋まで)の十の時代の各種写本、文物約5万件のものが隠されていました。戸籍簿、売買契約などの文書のほか、仏教の経、律、論、史の典籍;歴史、文学、天文、地理、医学書の写本など多種多様な書籍が含まれていました。漢の文字の他、古代チベット文字、サンスクリット文字など様々な言語で書かれていました。また最古の木版印刷本、他に絹画、刺繍、銅仏像など、「藏経洞」はまさに考古学世界を震撼させる世紀の発見でした。この第17窟は、第16窟の甬道の北側に位置し、平面は正方形、幅と窟の高さは3メートルにも満たない方丈小室という類の窟です。
第329窟 この窟にかつてあった唐の塑像は存在せず、現存の塑像は清の時代に作られたものです。伏斗式天井の藻井は青色で、空を象徴し、大勢の飛天は丸い図案の花を飛び回っている情景は、たいへん生き生きと描かれています。南壁には「西方浄土変」が描かれ、色の落ちがひどいが、聳える楼閣と雄大な殿宇が依然豪華さを失わず、中国の古代建築を研究するには重要な影像資料となっています。伏斗形の天井中央には重層の蓮華、その蓮内部には五色の光輪が描かれ、その周りを四体の飛天が舞っています。天井外周には十二体の飛天が飛翔しています。北壁の「弥勒経変」の中にも、第320窟と同様に、米国のウォーナー博士が1924年に壁画を剥がした痕跡二箇所が残されていました。
以上、特別参観窟4カ所を含めた10カ所の石窟を、小休憩を挟みながらも一気に、撮影禁止のため、各自思い思いに脳裏に焼き付けておこうと、女性研究員がペンライトで照らし出す塑像や壁画を食い入るように見学しました。参観を終えた一行は少々疲れ気味ながら三危山の麓にある敦煌研究院へと足を運びました。ここには、莫高窟に関する歴史写真や資料の展示とともに、現在未公開の第217窟、第276窟、第419窟、第285窟が「デジタルフィクション莫高窟」として設置されており、洞窟内の建築や彩色の塑像、壁画などが本物そっくりに再現してあり、ここでは撮影も自由にできました。
午後5時30分、莫高窟の参観を終えた一行は、夕食への途中、敦煌絨毯の工場に立ち寄り、お茶での小休憩でした。「夜光杯」や様々な土産物を物色している内に、一行の一人が右代表の形で高級絨毯を購入された時、店員整列の上、店長らしき人から大げさに全従業員を代表しての感謝の意が伝えられたとのことでしたよ。(笑!)
午後7時過ぎ、まだまだ明るい敦煌の空の下、郊外にある農村料理の「農家園」へと赴きました。何やら賑やかな音色がレストランの中庭から聞こえてきました。どうやら、農村の素人楽団による歓迎の演奏らしく、琵琶のような民族楽器や太鼓やドラに合わせて、女性2人が大きな声で民謡を歌っていました。一行の一部が寸志を差し出すと、一段と演奏が激しくなり、ついには舞台に誘われ、代わる代わる一緒になってドラをかき鳴らしていました。「北国の春」が始まった所で夕食となりました。(爆笑!)
午後9時過ぎにホテルに戻りましたが、敦煌の夜はようやく夕闇迫る頃で、街角の市場や繁華街はこれから飲み食いが始まるようで、大勢の観光客や人々で賑わっていました。
2日目 敦煌「莫高窟」特別参観
7日目 「陝西省考古研究院」「大雁塔」&「陝西省歴史博物館・唐代壁画珍品館」参観
8日目 「西安碑林博物館」「青龍寺」「兵馬俑坑」見学&「修了式」兼「歓送会」
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