第5回 毎日エクステンション・プログラム
「北京大学・サマーキャンパス2011」 <報告・3日目>

3日目 「漢長城」「玉門関」「陽関」&「鳴沙山」見学

「北京大学サマーキャンパス2011」報告

敦煌二日目の午前8時、一行は気温27、8度の爽やかな快晴の下、身軽な出で立ちでホテルを出発し、敦煌市から西北約100キロメートルに位置する「玉門関」へと向かいました。左側の小高い鳴沙山沿いに延びる、敦煌からチベットのラサに通じる有料道路はまだ、全線未完成とのことで車も少なく、快適な無料走行でした。やがて鳴沙山西端にある涅槃像の形をした岩山付近で右折し、バスは地平線の彼方まで続くゴビ砂漠の中、延々と続く一本道を先へ先へと進みました。今年のゴビ砂漠は30年ぶりの雨の影響で、ラクダ草や雑草がぽつぽつと生い茂り、まるで牧草地帯のようでした。やがて、バスは「玉門関」へのゲートに到着し、小休憩となりました。乾燥に強いという胡楊の木立と無線用アンテナがポツンと立っている以外、周り一面は瓦礫の多い砂漠地帯でした。

ゲートを潜り、ガタガタ道を「玉門関」より更に西へ10キロメートルのところにある「漢長城」へと向かいました。疎勒河(そろくが)沿いに延びる城壁跡で、秦の時代に築城が始まった万里の長城よりも少し後、漢代に築城された長城跡です。万里の長城の西端は敦煌の東にある「嘉峪関」と言われており、この「漢長城」はちょうどその西方へ向けての延長線上に位置しています。この「漢長城」も万里の長城と同様、西域の脅威であった匈奴の侵略から領土を守るためのものでした。延長は150キロメートルと言われていますが、残念ながら風化が進み、現在はとぎれとぎれに残骸が残っているだけでした。徐天進教授の説明によりますと、壁の構造は芦の層と瓦礫の層を重ね合わせながら突き固めた版築で、風化して外壁がほとんどなくなっているため、その様子をはっきりと伺うことができました。遠くには城壁に続くように烽火台も残っていました。


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午前10時、「漢長城」から「玉門関」へと向かい、やがてガタガタ道の右前方の荒涼たる大地の上に巨大な関所の城壁跡がポツンと見え始めました。大きな木造の「玉門関」の入口に到着し、一行はここで記念撮影をした後、巨大な城壁跡へと進みました。関所の城壁はほぼ完全に保存され、高さ約10メートル、南北の長さ26.4メートル、東西の幅24メートルで、西壁と北壁にはそれぞれ一つの門が設けられていました。その規模の大きさと二千年にわたる風雪に耐えてきた城壁の頑強さに一行は驚き、感動させられました。

「玉門関」は漢代に置かれた関所で、武帝のとき河西回廊を保護するため、北側に万里の長城が築造され、紀元前108〜紀元前107年頃にその西端に設けられました。南の「陽関」とともに西方に通ずる重要な関門でした。古来より異民族との攻防の地として漢詩にもよく詠まれており、唐代の詩人・王之渙(696〜?)が「涼州詞」の中で詠んだ「春風度(わた)らず玉門関」により、その名が広く知られています。この詩は、玉門関の置かれた辺境の地で羌(きょう)族との戦いに明け暮れる兵士の悲しみを詠ったものです。

【豆知識】 王之渙 「涼州詞」
黄河遠上白雲間   黄河遠く上(のぼ)る白雲の間
一片孤城萬仞山   一片の孤城万仭の山
羌笛何須怨楊柳   羌笛(きょうてき)何ぞ 須(もち)いん楊柳を怨むを
春風不渡玉門關   春風度らず 玉門関


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午前11時、「玉門関」から途中、昼食タイムを挟んで、南へ約80キロメートル離れた「陽関」へと向かいました。朝来た道を引き返すように進んでいると、誰かが「蜃気楼だ!」と叫びました。延々と続く道路に先には逃げ水のような蜃気楼がゆらゆら揺らぎ、辺り一帯はラクダが好んで食べるというラクダ草がゴビ砂漠のあちこちに見受けられました。やがてバスは右側の砂利道へと進み、緑のアオアシスに囲まれた「第一村」という小さな村に到着、ここで農村料理での昼食タイムとなりました。ポプラ並木の沿道の側溝は冷たい湧き水が勢いよく流れており、ゴビ砂漠の地下水が意外にも豊富なことを知らされました。ブドウ棚の下の野外レストランは快適で、小粒のマスカットのようなブドウが取り放題、食べ放題でした。辛くて酸っぱいという農村料理も野菜中心でよく口に合いました。


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昼食後、一行は再び変貌著しいゴビ砂漠の中の一本道を「陽関」へと向かいました。「陽関」は敦煌市から南西約70キロメートルの所に位置しています。当時の遺跡としては高さ4.7メートルの烽火台跡しか残っていませんが、カートで急坂を登って行くと、烽火台跡が残る高台付近には展望台があり、南側一帯には荒涼としたゴビ砂漠が見下ろせ、西のはるか彼方にはタクラマカン砂漠も眺望できました。高台の麓には「陽関博物館」や当時の城壁の建物、武器類がテーマパークのように再現・配置してあり、往時を偲ばせていました。「陽関」はシルクロードのルートの一つ西域南路の関所であり、「玉門関」と同様、重要な軍事拠点でもありました。この陽関については、唐代の詩人・王維(701?〜761?)が詠んだ有名な詩「送玄二使安西」があります。この詩は、「安西都護府」へ帝の使者として旅立つ友人・元二を渭城まで送っていき、いよいよ西域への関所となる陽関へ向かう日の朝、別れの杯を交わしている情景が詠われたもので、陽関を語るとき必ず紹介される詩です。

【豆知識】 王維 「送玄二使安西」
渭城朝雨潤輕塵   渭城の朝雨 軽塵を潤す
客舎青青柳色新   客舎青青 柳色新たなり
勸君更盡一杯酒   君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西出陽関無故人   西の方陽関を出づれば 故人無からん


「陽関」からの帰路、シルクロードの土産の一つ、夜光杯の製造工場に立ち寄り、夜光杯の意外な造り方を学んだ後、各自、思い思いの土産物を購入していました。夜光杯は祁連山で産出する石を削って作った緑色をした杯で、月の光にかざすと妖しく光って見えるというものです。産地の本場は酒泉ですが、敦煌にも工場があり、シルクロードの土産物として広く売られています。唐代の詩人・王翰(687?〜726?)が夜光杯を詠い込んだ有名な詩「涼州詞」があります。酔いつぶれても笑わないでくれ、これから戦場に行くのだから、と言う、これまたもの悲しい内容です。

【豆知識】 王翰 「涼州詞」
葡萄美酒夜光杯   葡萄の美酒 夜光の杯
欲飲琵琶馬上催   飲まんと欲すれば 琵琶馬上にうながす
酔臥沙場君莫笑   酔うて 沙上に臥す 君笑うことなかれ
古来征戦幾人回   古来 征戦 幾人かかえらん


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午後5時30分、朝からの見学を終えた一行は一旦、ホテルに戻り、ホテル内のレストランでの早い夕食となりました。この日は夕食を早々に済ませ、午後6時30分、一行は有名な「鳴沙山・月牙泉」へと向かいました。敦煌市の直ぐ南側に聳える広大な砂の山には、昼間の暑さを避けて、大勢の観光客が押し掛けており、遠くにはラクダや人間の列が見え隠れしていました。一行はカートに乗って「月牙泉」へと向かいました。カートを降りた一行は、細かい砂に足を取られながら、各自思い思いに砂山に囲まれた紺碧の泉の周囲を散策しました。「月牙泉」は東西の長さ218メートル、南北の幅54メートル、深さ平均5メートルと言われ、砂山に取り囲まれていますが、地形と風によって千年来、流砂に埋もれることはありませんでした。時折、ハングライダーで上空から見学する者やソリで中腹から砂山を一気に滑り下りる者など、一大遊園地のような賑わいでした。一行は夕日に赤く染まる砂山を背に、ラクダに揺られながら、キャラバン隊のよう気分で出口付近まで戻りました。初体験とあって、まるで子供に戻ったようなはしゃぎ様で、出口では記念写真を互いに奪うように買っていました。(笑!)


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夕闇迫る午後8時過ぎ、一行はホテルに戻り、各自、ホテル内での民族舞踊の鑑賞や近くの市場での買い物、市場内のビアガーデン等で、敦煌最後の夜を楽しみました。



 「北京大学・サマーキャンパス2011」 報告

報告 1日目 「開講式」&「歓迎会」

報告 2日目 敦煌「莫高窟」特別参観

報告 3日目 「漢長城」「玉門関」「陽関」&「鳴沙山」見学

報告 4日目 「楡林窟」&「嘉峪関」見学

報告 5日目 「伏羲廟」&「麦積山石窟」見学

報告 6日目 「宝鶏青銅器博物館」「法門寺博物館」&「乾陵」見学

報告 7日目 「陝西省考古研究院」「大雁塔」&「陝西省歴史博物館・唐代壁画珍品館」参観

報告 8日目 「西安碑林博物館」「青龍寺」「兵馬俑坑」見学&「修了式」兼「歓送会」

報告 9日目 帰国


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