07:30海抜約1600メートル、何とこの日は気温7℃前後の肌寒い快晴の朝でした。一行は身震いしながらバスに乗り込み、約130キロメートル離れた次の訪問地・赤峰市へと向かいました。車窓からは朝日に照らし出された白樺や針葉樹林の先には、放牧された馬やパオの集落があちこちに見えました。バスが爽やかな森林高原の有料道路を下って行くと、やがて公園出口のゲートが見えてきました。一行はここで小休憩して、観光客用の青空市場で地元農民達が売っている木の子や木の実を珍しそうに物色、味見をしていました。
8:30バスは再び国道111号線を赤峰市に向かって進みました。森林地帯からの緩やかな下り道の沿道は、途中、トウモロコシやソバ畑とともに、黄やオレンジ色の鮮やかなお花畑が辺りいっぱいに拡がり、まるで“桃源郷”のよう美しい風景でした。長閑な農村風景とともに、沿道のポプラ並木も整然と立ち並び、しばしの間、河北省最北端の田園風景を楽しみながらのドライブとなりました。
国道111号線は再び大地の拡がる内モンゴル自治区に入ると、道路工事区間のガタガタ道になりました。行き交う工事用の大型トラックがもうもうと土埃を上げる中、バスはしばらくの間大きく揺られ、運転手さんは孤軍奮闘でした。ここでも内モンゴル自治区と河北省とのインフラの違いを実感させられました。やがて前方に草原に浮かぶように、真新しい高層ビル群や工場らしき大きな建物が立ち並ぶ市街地が見えてきました。
11:30バスは内モンゴル自治区第二の地級市、人口約448万人の赤峰市に到着。中心街にある「赤峰博物館」へ向かう道はあちこちで道路工事中の迂回路。大規模な都市改造のための古いビルの解体工事と高層ビルの建設ラッシュといった状況で、一行は経済発展に出遅れた地方政府の旺盛な公共投資意欲に驚かされました。
11:50一行は真新しい荘厳な雰囲気の「赤峰博物館」に到着。女性解説員の案内に従い、中華文明の最初の曙とされる紅山文化の発掘物や「遼上京遺蹟」「遼中京遺蹟」等から発掘された文物や遼墓壁画・木棺等、契丹王朝に関する展示等を足早に見学しました。
紅山文化は河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃に存在した新石器時代の文化で、農業を主としており、龍等をかたどったヒスイ等の玉から、現在の中国に繋がる文化や宗教の存在の可能性が考えられています。紅山文化の墳墓からは、玉から彫った動物の装飾品が数多く出土し、龍の他にも、ブタ、トラ、鳥等が発見されています。「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる玉龍の造形は単純な円形のものが多く、後期になると盤龍・紋龍等の区別がはっきりとしてきて、後年、中原で始まった龍への崇拝は、この紅山文化にその源を発するという見方もあります。
契丹王朝は11世紀に耶律阿保機が建国した王朝で、本来、遊牧民であった契丹族でしたが、国家建設後は主要な五つの地域に都城を築きました。本拠地の 上京臨潢府 をはじめ、中京大定府、東京遼陽府、西京大同府、南京析津府の五都城で、この内、上京臨潢府は918年に建設が始まり、遼が1125年に女真族の金に滅ぼされた後も金王朝が利用し、300年余り都として機能しましたが、元王朝の初期に廃棄されました。
「遼上京遺蹟」の建築規模は壮大で敷地面積13.5平方キロメートル、城壁の高さ7メートルにのぼり、皇城と漢城に区別され、皇城には契丹族の統治者の宮殿と役所が置かれていました。建物の配置や宮中の造りはすべて中原の都城を模倣しています。「遼中京遺跡」は「遼上京遺蹟」と比べて、中原の都城の影響をより強く受けており、隋・唐の封鎖式の里坊制度を引き継ぎ、外城南側に里坊を作って主に漢族を住まわせていました。
今回は日程の都合から、両遺蹟の発掘現場は見学できませんでしたが、遼王朝の栄華の一端を垣間見ることができました。当博物館は今夏、東京で開催の「草原の王朝・契丹」展に出展された「耶律羽之墓」「陳国公主墓」等の主な文物も所蔵していますが、海外出展中のため、一行は事前学習の一環として日本でこれらの秘宝の見学を済ませていました。
13:30「赤峰博物館」の見学を終えた一行は、市内のレストラン「海王府」での昼食となりました。レストランは飛び込みだったためか、最初は2部屋に分かれての食事でしたが、徐先生の交渉で大きな部屋のテーブルになりました。しかし、大部屋の食卓準備でしばらく待たされたため、昼食が終わったのは午後2時半を過ぎていました。
遅い昼食を終えた一行は丁勇先生達との相談の結果、当初予定の「遼中京遺蹟」の見学を諦め、一気に南東に約160キロメートルの朝陽市に向かうことにしました。バスは省道から国道16号線(丹錫高速)に入り、トウモロコシや小麦畑等が拡がる下りの沿道の先には、遠くの山々から何本も伸びる送電線用の大型鉄塔の列が延々と並んで見えました。
16:30バスはやや蒸し暑い中、遼寧省西北部の大凌河流域に位置する人口約336万人の朝陽市に到着し、早速「朝陽博物館」へと向かいました。朝陽市は赤峰市と違って落ち着いた雰囲気の古都と言った感じで、現在は小麦、トウモロコシ、ビート、豆、ジャガイモなど農畜産業を基幹産業とする一方で、製鉄所、ディーゼルエンジン工場、タイヤ製造工場など遼寧省の新興工業都市としても急速に発展を遂げつつある地級市です。
「朝陽双塔」の南塔前にある「朝陽博物館」は残念ながら午後4時で閉館とのことで、一行は南塔及び北塔を見学することにしました。夕日に照らされた南塔から北塔へと向かう途中の参道の露店では、原産地の様々な玉や珍しい結晶の鉱石物が並べて売られており、一行は興味深そうに物色しながら北塔へと向かいました。高さ約42メートル・13層の四面体の双塔は“仏舎利信仰”を体現したものと言われています。仏舎利は仏教伝播の中核をなすもので、契丹の支配者達にとっても釈尊崇拝の念を表す重要な意味を有していました。
遼王朝時代、朝陽は中京道の県庁所在地の一つで興中府と呼ばれており、更に古く342年から燕国の都だったこともあります。「朝陽双塔」の本院である「延昌寺」は古い歴史を有し、5世紀に一人の僧がインドから経典をこの寺に持ち帰ったという言い伝えが残っています。これは玄奘三蔵の求法の旅より更に200年程も前のことで、この寺の北塔は北魏、隋、唐時代を通じて数回修復され、1044年、仏教に深く帰依した遼の興宗の手によって大改造され、今日の姿になりました。遼王朝は単に見た目の美しい塔を造営しただけでなく、その内部に秘密の宝物庫を設けていました。1984年と1992年の調査の際、北塔の12層部分の密室(天宮)と基礎部分の地下の密室(地下宮)からは貴重な宝物が発見され、更に南塔には釈迦の師とされる燃灯仏の体の一部が祭ってあって、この朝陽が遼王朝時代には重要な仏教聖地であったことが伺えました。
18:00一行は南塔近くにある「華府万国飯店」にチェックインし、午後7時半からホテル内のレストランでの夕食となりました。この日は木蘭囲場から赤峰市を経て朝陽市まで約300キロメートルの長旅で、一行はやや疲れ気味でしたが、前夜のパオと違って五つ星ホテルの豪華な雰囲気に満足気味。レストランも広々とした部屋で、早速、白酒で乾杯しつつ、旅の前半の想い出を話題に美味な地元料理を味わいました。夕食後は、市民の憩いの場となっているホテル脇の大凌河の河畔での散策や近くの繁華街に出かける等、各自、自由な時間を過ごしました。土曜日とあってか街中は夜遅くまで賑わっていました。
2日目 「居庸関」「鶏鳴駅城」「宣化古城」&「下八里遼墓壁画群」
4日目 赤峰博物館」&「朝陽双塔」
5日目 「朝陽市北塔博物館」「朝陽博物館」&「牛河梁紅山文化遺蹟」
株式会社 毎日エデュケーション
生涯学習事業部 「毎日エクステンション・プログラム」 係
〒103-0025 東京都中央区日本橋茅場町2-12-10
PMOEX日本橋茅場町 H1O日本橋茅場町 207
電話番号 03-6822-2967