08:10気温16℃前後の日本の秋を思わせる爽やかな晴れた朝。一行はこの日も元気よくホテルを出発し、「元中都博物館」へと向かいました。約20分で張北県南山東路に面した開館前の「元中都博物館」に到着、広大な敷地の中にある堂々たる容貌の建設間も無い博物館に一行は驚きつつ、しばし開館時間待ちとなりました。
元中都は元王朝三大都城(上都、中都、大都)の一つで、1307年に元武宗海山によって建造が始まったとされており、豪華な宮城大殿を中心に城内には多くの建物やパオが前後左右に拡がっており、周囲はほぼ正方形の城壁で囲まれています。この元中都の造営から滅亡までの歴史は元王朝の繁栄から衰退までをよく反映していると言われています。1999年に中都遺跡が発見されて以降、多くの重要な発掘物が出土しており、この時代の経済、軍事、風土等の研究が現在も盛んに進められているとのことでした。
【豆知識】
元武宗海山は元王朝の第7代皇帝(在位1307年〜1311年)。成宗テムルの兄の長男で、嫡子のいないテムルの有力な後継者候補でしたが、1299年にモンゴル高原に派遣され、元の高原駐留軍の指揮を委ねられました。1301年には中央アジアの諸王を動員して総力で高原に侵攻してきたカイドゥの軍を敗走させ、これらの戦功によって1304年に懐寧王に封ぜられ、1306年にはアルタイ山脈方面まで侵攻してメリク・テムルを降すなど大きな戦果をあげました。1307年、大ハーンのテムルが没すると、テムルの皇后はテムルの有力な後継者候補であった海山とその弟を首都の大都から遠ざけ、兄弟の母の実家であるコンギラト部の影響を排するため、コンギラトの血を引かないテムルの従兄弟を皇帝に擁立しようとしました。これに対しコンギラト派の重臣は密かに弟を大都に迎え入れ、クーデターを起こして皇后と従兄弟を捕らえました。これを知った海山は自らの指揮する大軍を率いてもう一つの首都・上都に赴き、弟に迎えいれられて譲位を受け、1307年に上都にて第7代大ハーンに即位しました。 (フリー百科事典・ウィキペディアより引用)
博物館内は「展覧供分序庁」「強大的元朝」「元朝三大都城」「元中都考古」「張北(中都)的歴史遺存」の五部構成で展示されていました。特に「元中都宮城中心大殿」の復元模型や大量の白石の 螭首 (ドラゴン)の実物陳列は、午後の「元中都遺蹟」の見学に、大変参考になりました。女性解説員の案内で広い館内を一回り見学した最終コーナーには「幻影成像」と称する最新鋭の立体画像装置があり、元武宗海山の宮廷内の様子をリアルに再現していて、ここでもその贅沢な展示設備に驚かされました。
一行が見学を終えた後、女性館長の要請で、徐先生による記念の揮毫が行われ、博物館側に作品2点が授与されました。約1時間の見学を終えた一行は午前10時、博物館員の先導で張北県の北西15キロメートル先に位置する「元中都遺跡」へと向かいました。
10:20トウモロコシ畑の拡がる中、沿道は参道のようなポプラ並木が続き、その突き当りに「元中都遺跡」の竹製の門構えが見えてきました。早速、入場手続きを終えて敷地内に入ると、そこは広大な大地が拡がっていて、案内図を見ても東西南北の方角が不正確で進路が分かりませんでした。案内の女性に従って敷地内を進むと、コスモスが咲き誇り、あちこちで造園工事や復元工事を行っており、観光客誘致に向けた準備に懸命の様子でした。一行は博物館で予め元中都全域の復元模型を見ていたものの、遺蹟の現場ははるかに想像を上回る規模の広さで、中心の宮城大殿基壇の修復現場では超大型のトラックが大量の煉瓦を積み下ろしていました。朽ち果てたままの古い基壇のままが良いのか、復元工事で修復された立派な基壇がよいのか、一行にとっては迷うところでした。次に城壁へと進みましたが、広い周囲の城壁は黄土の版築造りで風雨にさらされ、朽ち果てたままになっており、このままで良いのか、修復した方がよいのか、ここでも考えさせられました。
約1時間で「元中都遺跡」の見学を終えた一行は、西北へ約220キロメートルに位置する「元上都遺跡」へと向かいました。バスは張北県に一旦戻る形で、北東に向かう国道207号線に入って行きました。緩やかな登り国道は、高速道路とさほど変わりない快適さで、沿道にはトウモロコシの他に、ソバ、ジャガイモ等の野菜畑が延々と続いていました。
やがて沿道風景が徐々に草原地帯へと移り、バスは河北省から内モンゴル自治区へと入って行きました。遠くの小高い山々から近くの平原まで周囲360度、緑の草原が拡がり、遠くに放牧された馬や羊とともにパオの集団も見え隠れしていました。バスはいくら走行しても景色は変わらず、まるで西部劇の大パノラマの中を走る幌馬車のようでした。
13:10国道沿線の町・太仆寺旗(宝晶?)にあるレストラン「麗園食府」での昼食となりました。太仆寺旗(タイプス旗)は人口約21万人のシリンゴル盟管轄の旗で、街の中心地には一直線に延びた幅広い道路があり、その両脇には新たな高層マンション群が整然と立ち並んでいました。遅い昼食を終えた一行は、再び国道207号線を「元上都遺跡」のあるシリンゴル盟の正藍旗へと急ぎました。沿道は見渡す限りの広大な草原が拡がっていて、これぞ『草原の王朝遺跡を巡る旅』であることを実感させられました。
15:50人口約8万人の大規模な国営農場に囲まれた正藍旗に到着。市街地の一角に地元の不動産会社の社長が世界文化遺産の登録を受けて建てたという臨時の「元上都博物館」がありました。ここでは時間が無くて僅か20分での駆け足での見学となりました。
元上都は西暦1260年にモンゴル帝国の第5代皇帝クビライが設営した都で、1264年に現在の北京に元大都を建設すると二都巡行制度が確立されました。元上都と元大都は元王朝が交互に使用した二つの都で、元上都は夏の首都として使用されました。1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことにより、ヨーロッパ人にその存在が知られるようになりました。2009年から3年間に渡って過去最大規模の発掘調査が行われ、多数の貴重な遺物が掘り出されて、元上都遺跡の保護と展示活動のための大量の発掘物とデータが収集されました。その結果、元上都は外城、皇城、宮城の3重の城壁が巡らされており、外城は平面がほぼ正方形、皇城は外城の南東部に位置して平面はほぼ方形、宮城は皇城の中央からやや北寄りに位置し、平面は長方形で、宮城内からは左右対称でない約30カ所の建築遺構が見つかりました。元王朝の滅亡後もモンゴル人によって守られてきたため、中国に現存する草原の都城遺蹟としては最も保存状態が良く、規模も最大とのことです。現在、世界文化遺産の正式登録を受けて、遺跡近くの山間部に大規模な「元上都博物館」を建築中ですが、臨時の博物館には発掘物の一部と元上都の復元図や元王朝の歴史的資料等が展示されていました。
17:30市街地から北西に約20キロメートル離れた草原地帯の「元上都遺跡」に到着。入口らしき場所には数軒のパオがあり、そこが入場券売り場と休憩所のようでした。「元中都遺跡」と違って、入口も都城跡らしきものも周囲の城壁も周辺には見当たらず、ただ夕日に照らされた大きな「元上都遺址」と刻んだ石碑と草原の先にまっすぐに伸びた遊歩道があるだけで、一体どこまでが遺蹟の敷地なのか、見当もつきませんでした。
一行はこの日最後の見学者としてカートに乗り、中心部の宮城遺蹟付近まで進みました。そこから更に進路に沿って約1.5キロメートルの遊歩道脇には「宮城・御天門」「宮城・明徳門」「宮城・大安閣」「穆清閣」の解説石盤が埋められた発掘現場前に置かれていましたが、今はほとんどが埋め立てられて草に覆われ、風雨に朽ち果てた瓦礫の中を散策するような感じでした。しかし、復元工事の進む「元中都遺跡」とは違って、自然のままの素朴な遺蹟の様子に、却って歴史の重みが感じられました。
18:30一行は高台の皇城跡から真っ赤な夕日を浴びながら、復路は元王朝期の馬車を模した5人乗りの馬車に分乗し、大量の“蚊軍団”に襲われながら、大きく東側を迂回して入口らしき駐車場まで進みました。約1時間での「元上都遺跡」の見学を終えた一行は、夕闇迫る中、省道及び国道111号線を東へ約200キロメートルの「河北木蘭囲場省級自然保護区」へと向かいました。登り道を進むにつれてバスは草原地帯から曲がりくねった山岳地帯へと進み、周囲の山々の頂には大型の風力発電機が無数に林立していました。
19:30夕闇迫る中、峠を越えた一行は内モンゴル自治区多倫県の「草原特蒙餐」という餐庁での遅い夕食となり、地元料理を味わうことにしました。餐庁では地元モンゴル族の人々の賑やかな宴会が始まっており、朝青龍のようなオジサンやオバサン達が乾杯毎に大声で歌っていました。朝からの強行日程でやや疲れ気味の一行は、モンゴル式の騒がしい宴会に圧倒され、ここではテーブルも2つに分かれての静かな夕食となりました。
22:15夕食を終えた一行は、すっかり暗くなった夜道を再び木蘭囲場へと急ぎました。バスは徐々に高度を上げ、内モンゴル自治区から河北省最北部の森林地帯へと進み、やがて「森林草原景区」の入口ゲートに到着。ここで入域料を支払い、ゲートを通過すると道路は石畳のような立派な有料道路に早変わり、途中「海抜1525メートル」の標識がヘッドライトに浮かび上がっていました。満天の星空の下、沿道の白樺や針葉樹林の高原風景が映え、左側の車窓からは木立の間を延々と並走する“北斗七星”の姿が輝いていました。
23:00バスはやっとの思いで真冬のような寒い木蘭囲場のキャンプ地らしき小さな村に到着。草原での絨毯敷きのパオを想像していた一行にとっては、やや期待はずれの板床式のパオの集落でしたが、疲れ切った体を癒すため、早々にパオの中に入り込みました。パオの内部は質素なベッドだけでしたが、色鮮やかな壁面や天井の骨組に、遊牧民の生活の一端を味わうことができました。タンク式の湯沸かしは時間がかかり過ぎるため、一行はこの夜、ほとんど着の身着のままの姿で冷たい布団に潜り込みました。南無!
2日目 「居庸関」「鶏鳴駅城」「宣化古城」&「下八里遼墓壁画群」
3日目 「元中都博物館」「元中都遺跡」&「元上都遺跡」
5日目 「朝陽市北塔博物館」「朝陽博物館」&「牛河梁紅山文化遺蹟」
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