洛陽市郊外にある龍門石窟は、北魏の都が洛陽に遷都された493年から、隋・唐を経て宋にいたる400年間にわたり、開削され続けました。仏像だけで10万体以上あります。そのうち北魏時代のものが30%、唐代が60%占めます。まず、北魏後期の西暦500年過ぎに造営された賓(ひん)陽中洞を覗いてみました。
賓陽中洞本尊。現地では気が付かなかったのですが、写真を整理していて、法隆寺の仏像に似ているなと思いました。早速書棚から『魅惑の仏像』(毎日新聞社1986刊)を取り出してみたところ、法隆寺の釈迦三尊像の中央に座す釈迦如来像と似ていたのです。賓陽中洞本尊が、500〜523年に造られたの対し、法隆寺の方は、止利仏師によって623年に造られています。その止利仏師の祖父が、朝鮮からの帰化人でした。どちらの仏像も、面長な顔の口許に、微笑みがこぼれています。
仏像の多くが、顔を削がれていました。自然崩落や盗掘(主に1930年前後)が主原因と説明されていますが、この写真の場合は、顔だけがないところから、盗掘目的というより、顔そのものを狙ったとしか考えられません。明治維新の廃仏毀釈運動によって顔を削がれた仏像写真を見たことがありますが、はたして龍門石窟の仏像たちは、どのような理由から、顔が削ぎ落とされたのでしょうか。
龍門石窟最大の奉先寺正面に、大仏さんがありました。大盧舎那仏像。高さ17m、頭高4m、耳長1.9m。東大寺の大仏さん(盧舎那仏像)とほぼ同じくらいの大きさです。唐代仏教彫刻の代表作となっています。中国史上唯一の女帝、武則天をモデルに造られたと言い伝えられています。
端正で温和な顔は、仏像の持つ神々しさよりも、人間的な美しさを感じさせます。制作年は675年。東大寺大仏像の制作は、それから70年後に、聖武天皇の発願により開始されました。聖武天皇の後ろには、仏教に深く帰依していた光明皇后がいました。日中両国の大仏造営には、女性の強い係わりがあったのです。
天王像に踏みつけられる邪鬼像2体。どんな悪さをして、懲らしめられているのでしょうか。どこの邪鬼たちも、名とは逆に、無邪気な表情をしていて、魅せられます。
こうして唐代の遺跡を見ていると、時代が近づき日本が近づいて感じられます。殷(商)や秦代の遺跡や文物は、遥か遠くの、まさに考古学でしかアプローチできない、別世界からのメッセージのような感じがします。しかし、唐代にはいると、中国が近くに感じられるのです。ここ龍門石窟でそのように感じ、そして決定的に唐を日本との距離で、真近に感じたのは、西安市の阿倍仲麻呂碑を見たときでした。
阿倍仲麻呂(698〜770年)は717年、遣唐使として唐の都長安へいき、科挙の試験に受かって玄宗皇帝に仕えました。一度は帰国の途につきますが、乗船した船が暴風雨にあってベトナムにまで流され、ついに日本へは帰ることが出来ませんでした。
西安市の興慶宮公園にあった記念碑には、
翹首望東天 神馳奈良邊 三笠山頂上 思又皎月圓
首を翹げて東天を望めば 神(こころ)は馳す奈良の辺 三笠山頂の上 思ふ又た皎月の円(まどか)なるを
と刻印されていました。(ウィキペディア「阿倍仲麻呂」にて漢詩体の各漢字を確認し、書き下し文もそのまま引用)。
百人一首の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」の漢詩訳です(ただ、先に漢詩として書かれ、その後、日本語訳されたという有力説があります)。この詩を仲麻呂は、唐の都・長安で詠んだのでしょうか。
同じ記念碑の反対側には、李白(701〜762)が、友人の仲麻呂が遭難死したと思って作った追悼の詩が、刻まれていました。
日本晁卿辞帝都 征帆一片遶蓬壺
明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧
日本の晁卿 帝都を辞し 征帆一片 蓬壺を遶(めぐ)る
明月 帰らず 碧海に沈み 白雲 愁色 蒼梧に満つ
(一海知義著『漢詩一日一首』平凡社刊による)
「晁卿」−阿倍仲麻呂のこと、「蓬壺」−東海に浮かぶ島々、「蒼梧」−地名。
友人阿倍仲麻呂に対する李白の哀惜の念が伝わってきます。
今回の旅行の終わり近くにこの記念碑に出会い、日中間の1300年におよぶ、長くて深い関係を、あらためて思い起こしました。(中国旅行記 完)
(1) 龍の国・中国の旅
(2) 古代中国を行く−青銅器時代へ−
(3) 人、人、人・・・中国の旅
(4) 茶を飲む・中国の旅
(5) 現代中国の新しさとダイナミズム
(6) 古代中国が蘇る・遺跡発掘現場へ
(7) 奈良の仏像のふるさと・龍門石窟