中国四大博物館を巡る旅:参加者レポート
「中国旅行記(2)〜古代中国を行く−青銅器時代へ−」

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中国旅行記(2)〜古代中国を行く−青銅器時代へ−

北京市故宮の九龍壁の部分

「中国四大博物館を巡る旅」と銘打った今回の旅行は、首都博物館(北京市)、河南博物院(鄭州市)、陝西省歴史博物館(西安市)および上海博物館(上海市)を巡る旅でした。結構厳しい日程のやり繰りのなか、各館1〜2時間の滞在で結局、青銅器中心の見学となりました。これが幸いし、美しく存在感のある青銅器を通して、遙かなる古代中国の薫りを、少しは実感することができました。

(写真:双羊尊 殷(商)代晩期13-11C/B.C. 盛酒器 実大45p)


この旅行のためのテキストとした陳舜臣著『中国の歴史』(講談社文庫)の第1冊は、三皇五帝の神話時代から殷・周を経て、春秋戦国時代までを記述しています。この期間は、中国では丁度、青銅器時代に相当します。奴隷制社会から封建制社会初期です。この本のなかで、20世紀初め、甲骨片を薬種屋から買い取ったという甲骨文字発見のエピソードはおもしろく、日中戦争時、中国人研究者が貴重な考古学資料を日本軍の空襲から守るため、命がけの努力をしたという事実には、思わず襟を正す思いがしました。そして何よりも興味深かったのは、甲骨文字や青銅器の文字の解明によって、司馬遷が『史記』に書いた「歴史物語」が、ほとんど史実であったことが、次々と判明したことでした。中国考古学は、歴代の史書の内容を甲骨や青銅器に残された文字によって実証し、気の遠くなるような中国古代史を復元してきました。

4つの博物館で多数の青銅器をみました。種類は多く、食器、酒器、水器、楽器および武器などがあります。なかでも、酒器の種類もバラエティに富み、盛酒器、飲酒器、温酒器、斟酒器、貯酒器、調酒器などがあり、それぞれ複数の形が残っています。斟酒は酒を酌むこと、調酒は酒をブレンドすること。酒器が目的によって、多様に分化していることは、酒文化の成熟ぶりを窺わせます。恐らく、これらの青銅器の多くが、祭祀用として使用されていたとすれば、祭祀と酒のつながりの深さを、示唆します。いずれの博物館でも、ナトリウム灯による薄暗い橙黄色のなか、ただ文物のみが明るく、簡体字の説明つきで鑑賞することができました。写真撮影が許されていたので、ストロボは控え、ISO400で撮ってみました。酒器のみ掲載します。色彩は、冒頭の双羊尊の写真のみが、実物に近い感じです。




西周11C/B.C. 首都博物館

飲酒器。蓋のないものも、多く見られました。殷・周ともに、長期間つくられました。



西周1046-771B.C. 河南博物院

盛酒器。鳥・魚・獣のデザインが多く、北方狩猟民族の影響が感じられます。

 

春秋770-476B.C. 河南博物院

調酒器。黒黍(きび)の酒と薬草の鬱(うつ)を混ぜるために使われました。

殷(商)中期から春秋時代にかけてつくられました。

 

春秋771-476B.C. 河南博物院

貯酒器。



西周早期11-10C/B.C. 陝西省歴史博物館

飲酒器。左が流という飲み口、右が尾。

角とともに、どこの博物館にも展示されていました。



殷(商)代晩期13-11C/B.C. 陝西省歴史博物

温酒器。2本の柱のてっぺんに、かわいい鳳凰がとまっています。



西周中期10-9C/B.C. 陝西省歴史博物

飲酒器。まさにカップそのもの。



殷(商)代晩期13-11C/B.C. 上海博物館

盛酒器。注ぎ口と把手がついています。顔は羊。3000年前のものとは信じられません。



春秋晩期 6C-476B.C. 上海博物館

盛酒器。犀尊や鳥獣尊などがありました。



西周中期10-9C/B.C. 陝西歴史博物館

方彝は屋根型の蓋をもった盛酒器。 

陳舜臣さんは、これら青銅器の直接製作者は、奴隷たちだと言っています。祭祀があれば、奴隷は殺されました。殺されないためには、役に立つ人間にならなければならない。そして「殷の青銅器芸術は、命のかかった奴隷の気迫から生まれたような気がします。その緊迫した造形美は、ただならぬものがあります。生命力というよりは、生きる意欲、生への主張が表現されているようです」。そして陳さんは静かにいいます。「古代にロマンばかりをもとめてはなりません。そこには悲しい奴隷たちのため息も満ちています」。

冒頭掲げた写真「双羊尊」は現在、中国にはありません。河南博物院の売店で買ったレプリカです。現物は、大英博物館にあります。どのような経緯で渡英したのかわかりませんが、中国では、国宝級の海外流出文化財のひとつとして、その帰還が望まれています。重要な文化財が、中国の経済力向上にともない誕生した富裕層によって買い戻され、政府に寄付されたということが、ニュースになっています。こうして戻ってきた文化財を、「海帰文物」と呼んでいます。

清の西太后の離宮頤和園は1860年、英仏連合軍によって宝玉類はことごとく略奪され、建物も放火されて焼失した、と観光案内版に簡体文字の中国語と英語と韓国語とそして日本語の4つの文字で書かれていました。その後、仏、露、独に日本も加わり、帝国主義列強は中国を侵略し、略奪し、人びとを殺害しました。アヘン戦争からの約100年の間に、どれだけの文化遺産が破壊され略奪されたか、はかりしれません。帝国主義は、古代中国をも侵略し、破壊したのです。しかし、解放後の新中国は、とりわけ改革開放後、過去100年の深い傷痕を治癒し、遥かなる遠い古代文明を取り戻す能力と意欲を持ち始めました。それが海帰文物として現在、帰結しているのだと思います。



(1) 龍の国・中国の旅

(2) 古代中国を行く−青銅器時代へ−

(3) 人、人、人・・・中国の旅

(4) 茶を飲む・中国の旅

(5) 現代中国の新しさとダイナミズム・中国の旅

(6) 古代中国が蘇る・遺跡発掘現場へ

(7) 奈良の仏像のふるさと・龍門石窟 

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