龍よりも青銅器よりも、圧倒的に多いのが勿論、人です。故宮にも長城にも、龍門石窟や兵馬俑にも、そして上海の豫園にも、名所旧跡には多くの人々が、中国各地から観光に来ていました。日本人や欧米人なども見かけますが、圧倒的に多いのが、中国の人々です。服装は小奇麗でさっぱりしており、生活のゆとりを感じさせます。鄭州市が省都である河南省の人口は、1省だけで1億人。圧倒的な人びとの群れです。
鄭州市の朝6時過ぎ、博物館前の広場で、4,50人の市民が太極拳を舞っていました。舞うというのが正しい表現かどうか知りませんが、その仕草は、この言葉にふさわしい感じです。近くの小公園では、健康を求める人々が思い思いに集まり、多様な健康法を実践していました。後ろ歩きの人、木の枝に片脚をかけてストレッチ する人、大きく美声を張りあげる人、一方の手で他方の腕をパチパチと叩く人、あれっ、その横では、太い樹の幹を叩いている人がいますよ。老人たちは、ゆっくりと散歩を楽しんでいます。
朝の光景で忘れられないのが、北京の頤和園でみた、石畳のうえに文字を書く人の姿です。明朝体の美しい文字が、大きな筆で大書されていきます。書の国中国ならではの光景です。草書体の達筆の跡は、蒸発して消えつつありました。
勤労者の朝は、通勤ではじまります(鄭州市)。7時過ぎには、自転車とバイクと乗用車が、広い道路に行き交い始めます。自転車は電動で、日本の原付きバイク に似ています。それらの2人乗りは普通で、3人乗り、4人乗りも珍しくありません。若い夫婦がまん中に、眠気まなこの子供を挟んで走り去りました。なかには、幼児を2人挟んだペアーがおり、1人っ子政策にもいささかの例外があることを、示唆してくれます。
北京の朝、労働者を満載したトラックが、私たちの乗ったワゴン車の前を走り去りました。道路清掃の労働者かもしれません。北京から上海まで5つの都市を訪ねたのですが、市街地はどこも、ゴミひとつ落ちていませんでした。あちこちで道路清掃の場面を見ました。北京に向かう国道には、人民解放軍の長蛇の車列が、兵士を満載して通り過ぎました。建国60周年の国慶節準備のためだと、ガイドが教えてくれました。
朝はまた、農作物の運搬の時間です。英文字のブランドショップが立ち並ぶ上海の街角で、果物を積んだリヤカーを引っ張る自転車3人組みを、見かけました。市場へ行くのか振り売りなのか、わかりません。他の街でも、多く見掛けました。また、観光地に近い自動車道路では、農家かあるいは商人が、やはり三輪自転車に果物を積んで、路上販売している姿をみました。桃や西瓜が多かったようです。馬車も時々見かけました。
西安市の朝市。豊富な野菜類が販売されていました。種類はほとんど日本と変わりません。北京空港へ着陸するとき、眼下の畑にビニールをかけた畝が多数見えましたが、恐らくここ西安でも、同じように野菜が作られているのだと思います。
鄭州市から西北約30kmのところに、黄河遊覧区があります。ここは中国で唯一、観光客が黄河を遊覧できるところ。黄河の水深が浅いため、水陸両用のホバークラフトに乗って、遊覧しました。広い砂地の河岸で上陸し、狭い河幅を意外と感じながら、黄土色に染まった大河を眺めました。そこに、10頭前後の背の低い馬を連れた男たちが、観光客に乗馬させるため、近づいてきました。1回10元(150円)で乗せてくれました。50メートルほど離れたテントのなかでは、2人の男が座って話し、少年がひとり手作業のようなことをしていました。近くの農民が出張ってきているのか、そこが生活の場なのか、わかりませんでした。
洛陽の白馬寺を訪ねた時、反(嫌)日家に出会いました。バイク用のヘルメットを被りすこし派手な感じの服装をした初老の男性でした。突然「お前は日本人か」と英語で確かめた直後、ちょっとした侮蔑の行動をとりました。戸惑う私の後ろから、ガイドたちが、激しく抗議をしました。空海像のある日中友好碑の傍での出来事でした。日本の侵略の歴史への反感とわだかまりが、まだまだ根深いものがあると、あらためて感じました。
鄭州や西安の街は、漢字の洪水でした。「東方整形 五星級整形品牌」は美容整形の広告か、は投資の広告かと想像しました。「金」が3つ重なったという漢字は、何か凄みがあります。公衆便所で小便をする男性の目の前には、「向前一小歩 文明一大歩」とありました。日本の蕎麦屋のトイレの「松の露・・・」とは大分、趣むきが異なります。漢字の洪水は、上海市に降り立つと少々、様子が違ってきます。英語表記が断然増加し、漢字表記は小さくなってきました。来年の万博向けなのか、戦前の歴史の反映なのか。10年以上も前ですが、ソウルの街中で見た文字が、圧倒的にハングル文字だったことを思い出しました。
ガイドとして8日間付き添ってくれたTさんの話。幼い頃からバイオリンを習っていたという彼女は、北京の外国語大学で日本語を学び、卒業後日本語ガイドとして働いている、20代後半のキャリアウーマンです。知的でユーモアを解する素敵な女性でした。旅行中には、すこしは旅先の言葉を学ぶべきは私たちのほうですが、逆に日本語を積極的に学んでいたのは、彼女のほうでした。義兄は、根っからの京都人で、話し言葉に和語が多いひとです。その義兄の主な話し相手が、Tさんでした。彼女はときおり、わからない和語に引っ掛かります。電子辞書のしおりには、「俎板の鯉」「とんちんかん」「男盛り」「ほったらかす」「里ごころ」などが話題になったことを記録しています。彼女は、自分の知らない言葉が出るたびに、カシオの電子辞書を持ち出して翻訳し、なおわからない場合は、私のシャープで調べ直し、都度、小さなノートに丹念にメモを取っていました。
洛陽から西安に向かうディーゼル列車のなかで、Tさんは家族について語りました。還暦に近い父親は18歳の時、文化大革命のもと黒龍江省へ下放され、そこで10年間、大豆を運ぶトラック運転手をさせられました。このため、高等教育を受けることができなかったことを今、大いに悔いでいる、ということでした。また、1989年の天安門事件の時には、再び文革のような事態となり娘のTさんが巻き込まれないかと、両親は本当に心配していた、とも話しました。私と同時代の中国人たちの、恐らく北京に住んでいた「知識分子」と分類された人たちの、過酷な運命を垣間見た感じがしました。
洛陽から西安への移動は、Tさんの話を聞いたり、車窓の外に広がる農村の風景をみながらの5時間半ほどの鉄道旅行でした。列車が西進し高原地帯に入ると、農家に混じって、(ヤオドン)と呼ばれる洞窟の住居がありました。畑地にはトウモロコシが栽培され、休閑地は全く見当たりません。線路近くの傾斜した狭い畑にまで、無駄なくトウモロコシが植わっていました。
西安駅に到着したのは、夜の9時半頃でした。駅には出迎えの人々が、大勢押しかけていました。駅の外は、これから旅立つ人々とそれを見送る人々で、駅構内にも増して混雑していました。これには驚きましたが、懐かしい風景でもありました。私たちの国では、大都会のターミナル駅が単なる通過空間となり、地方の駅がすっかりさびれて元気を無くしてしまったのとは対照的でした。西安駅は今回の旅行で最も「ひと」を感じた時でした。
(1) 龍の国・中国の旅
(2) 古代中国を行く−青銅器時代へ−
(3) 人、人、人・・・中国の旅
(4) 茶を飲む・中国の旅
(6) 古代中国が蘇る・遺跡発掘現場へ
(7) 奈良の仏像のふるさと・龍門石窟