中国四大博物館を巡る旅:参加者レポート
「中国旅行記(6)〜古代中国が蘇る・遺跡発掘現場へ」

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中国旅行記(6)〜古代中国が蘇る・遺跡発掘現場へ

兵馬俑

博物館では、系統立てて時代順に陳列された文物を、説明文を見ながら鑑賞するのに対して、遺跡発掘現場では、個別的・体感的に直接、歴史を体験します。だから、発掘現場に立った時、ある程度の知識を持っていないと、ここが何なのか理解できない場合がある一方で、発掘現場の事実そのものに圧倒され、思わず古代に引き込まれるケースがありました。鄭州市の鄭州商城は前者、西安市の兵馬俑坑は後者の典型でした。


河南省文物研究所

鄭州市の繁華街の一角に、餃子店などに並んで、「河南省文物研究所」の古い建物がありました。ここが、殷(商)代初期から中期と推定されている城址の遺跡発掘現場でした。殷(商)は、考古学によって実在が確認されている中国最古の王朝です。1930年前後に、中国人学者たちによって発掘された殷墟(河南省安陽市)は、B.C.1600年〜B.C.1046年まで続いた殷(商)代の後期にあたる遺跡でした。1950年代に入り、ここ鄭州商城の発掘により、時代はさらに溯り、殷(商)の初・中期まで王朝の実在が確認されました。


大型城壁の一部分

がっちりした体つきの老先生の案内で、切通しのような土手の前に立ちました。版築(板枠のなかで土を打ち固めた土壁築造法)によって造られた周囲7qの大型城壁の一部分でした。兄が「京都の御土居と同じや」とつぶやきました。秀吉によって造られた京都の御土居は、周囲22qもあったそうです。御土居から更に3000年前。御土居の内外を洛中・洛外と称しましたが、この「洛」の字のもとは、同じ河南省の古都、洛陽市の「洛」です。


拓本

建物入口には、文字や動物文様の入った墓石状の石柱が立てかけられおり、それらの拓本の掛け軸が、壁に掛けられていました。薄暗く狭い売店で、老先生が写しとった小さな拓本を買いました。研究所の庭で蚊にさされ、腕を掻きながら隣地に立った新築の高層マンションを見上げると、現代化の渦中にあって「商城ここにあり」との古代の声が、聞こえてきそうな感じがしました。この鄭州商城は、訪問した他の博物館や遺跡と比べ、地味なうえ夕方のあわただしい訪問だったのですが、案内された老先生や腕のかゆみの記憶とともに、なんとなく懐かしい思い出の地となりました。


兵馬俑

秦の始皇帝兵馬俑は、西安市郊外、秦の始皇帝陵墓の近くで1974年、井戸掘りの農民によって発見されました。「俑」とは、泥と木で作った人間の彫塑像で、殷(商)から周代初期に行われていた人間の殉死に代わって、その後、使われたものです。陳舜臣さんの『中国の歴史1』には、上記の安陽市の殷墟から、殷(商)代の殉死した人間の遺骨が、大量に発掘されたと記されています。


兵馬俑

身長1.80〜2.00mほどの鎧で身を包んだ兵士たちが、幾百人と整列して立っている光景は、圧巻です。顔の表情を一人ひとり見ていくと、すべて違います。首のない兵士たちも混じっています。痩せぎすのきりっとした顔が多いなかで、小太りした丸顔の穏やかな表情の兵士もいます。冒頭の色付き写真は、現地にあった写真の転写で、発掘当初はこのようにカラフルだったようです。


兵馬俑

また、発掘された兵馬俑は、整列していたのではなく、倒れたまま土中に埋もれていました。顔を土中に突っ込んだまま倒れている兵士は、殉死した兵士の遺体のように見えました。


発掘作業

兵馬俑発見から35年経ちましたが、発掘作業は未だ道半ば。国家の手厚い支援を受けた考古学者たちによる古代中国再生の取り組みが、地道に続きます。兵馬俑をみていると、これこそまさに人類全体の遺産であると、心の底から思えてきました。


青銅製の車馬

青銅製の車馬が2台、一列に展示されていました。前列には、騎兵が手綱をもって4頭立ての馬車を御しており、後列は箱馬車となっていて、皇帝の乗り物だったようです。馬も車も完成度の高い造形美を保ち、多数の細かな馬具類も、完璧に備わっていて、極めて写実的でした。
兵馬俑の人も馬も間違いなく、その個性的な顔と写実性から、実在したモデルがあったと想像します。2200年前の古代中国で、彼らは何を思い、喜び、悩みながら、生きていたのでしょうか。



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