3月17日、うす曇りの朝。成田空港を定刻10:45に出発したCX501便は、現地時間15:05に香港に到着。ここで乗り継ぎのため、約2時間半の待ち時間があり、しばし休憩の後、定刻通り17:35、香港ドラゴン航空・KA128便に乗り換え、ダッカ経由で現地時間22:15(日本時間25:30)にやっとの思いで、カトマンズ・トリブバン国際空港に到着しました。
薄暗い煉瓦造りの空港ビルは9年前とほとんど変わらず、気温は東京よりもかなり暖かい。出迎えの人達で混雑する中、現地ツーリズムの案内で市内の中心・タメル地区にある「ホテル・バイシャリ」へと向かいました。
車窓から眺めるカトマンズの夜景は真っ暗闇で、街角のあちこちに武装警官や軍人の姿が見受けられました。
ここ数年、政情不安と毎日12時間の停電が日常茶飯事になっているとのことでした。今回は弔問の旅ということで、スタンダードクラスのホテルにしましたが、ロビーは停電で非常燈のみ、周辺も自家発電の灯が街角の一部に見られる程度で静まり返っていました。ロウソクの灯りの下、オーダーしたルームサービスはやたらと遅く、やっと運ばれてきたビールは冷えていません。これも停電のせいかと諦めつつ、一日の長い空の旅の疲れを癒すため、この日は早々に床につきました。
3月18日、晴れ。早朝から何となく騒々しいホテル周辺を散策。タメル地区は旧王宮広場に隣接した繁華街で、昔から一日中、観光客相手の土産物屋や市民の日用品売り場で混雑していましたが、今回は人混みとともに、オートバイの数がやたら多くなっていました。
驚いたのは、町のあちこちに放置されたゴミの山です。ゴミ処理場問題で地元住民の受け入れ反対運動がおこり、市内のゴミ収集がマヒ状態になっているとのこと。更に、停電の続く中、皮肉にもインターネットや生活の電化が進み、頭上に垂れさがる電線が無秩序に絡まって、今にも落ちてきそうで危険な状態でした。
その一方で、早朝から街角にたたずむヒンズーの神々に祈りと供物を捧げながら巡回する老若男女の姿は昔のままで、一服清涼の思いがしました。
9:00、現地参加の日本人女性の大学院生2名が加わり、一行5名は友人のS・サキャ氏の案内で故ケーツン・サンポ師を弔問するため、カトマンズ東郊にあるニンマ派ゴンパへと向かいました。サキャ氏は彼がまだ大学生だった1982年の夏、「チベット展」へ出品する作品回収に当り、通訳を兼ねて筆者とネパール及びインド奥地を一緒に飛び回った関係で、現在は貿易・旅行会社等を手広く経営しているネパール有数の実業家です。
今回、カトマンズ訪問に当って、ゴンパとの連絡やラウンド手配でお世話になりましたが、我々が出発直前の3月16日にご尊父が心不全で急逝されたとの緊急連絡が入り、現地の習慣で一週間、家族全員が喪に服すため、予定していた我々との同行が不可能になったとのことでした。しかし、当日、本人がホテルに現れ、我々を驚かせましたが、ご家族や親戚の皆さんが日本からの大事な友人達との約束を守るよう、例外的に外出を認めてくれたとのことでした。関係者の皆さんの心温まる心遣いに心から感謝せざるを得ませんでした。
カトマンズ市内は通勤ラッシュと重なり、あちこちで渋滞に巻き込まれ、騒音と排気ガスで何となく息苦しい思いをしました。乾季で水量の少ない河原にはブルーのビニールテントが連なっており、まるで難民村のようでした。聞くところによりますと、共産党毛沢東主義派の再武装化の動きで地方の多くの農民が難を逃れ、ホームレスと化してカトマンズに押し寄せているとのことでした。政情不安がもたらす悲劇の様子を垣間見た思いです。
9年前の3月には、市内を経て東郊外のボダナートを後にすると、人影も少なくなり、遠くにのんびりと若草を蝕む牛や羊の姿が見られ、牧歌的な新春の田園風景が広がっていましたが、今回は同じ道筋に沿ってどこまでも、工事中を含めた煉瓦造りの家々が連なっており、人口急増の影響が遠く、郊外にまで及んでいました。
カトマンズの近況
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