この日も気温30度前後、薄雲りの朝。一行は6時半からの朝食を済ませ、午前8時、早々にチェックアウトをして、前日訪問の「河姆渡遺跡」からは程近い「田螺山遺跡」へと向かいました。大型車両の行き交う国道沿いに南東へ約50kmの田園地帯を左折した先の小高い田螺山の麓に大きなドームに覆われた「田螺山遺跡」の建物が見えてきました。現在、遺跡に隣接する建物の外壁工事の作業中でしたが、現地の発掘責任者である孫先生の先導で立派な応接室に案内され、午前10時から早速、大型モニターを使い、「河姆渡文化研究」と題して、約1時間の「特別講義」が始まりました。
「田螺山遺跡」は、河姆渡文化を代表するもう一つの稲作文化遺跡で、2001年に井戸を掘削していて偶然に発見されました。これまでに発見された河姆渡文化関連の遺跡の中では、地上環境が最も完全に保存されており、地下遺物も比較的整った状態にあります。田螺山の村落は山麓の小盆地にあって豊富な水資源に恵まれ、当時の村民達は山で狩猟をし、湖で漁をしていたものと推測されています。村落は海にも近く、出土した鯨の肋骨、マグロの椎骨、サメの歯からも、当時近くに大きな水域があったことが証明されており、湖によって田螺山村落と河姆渡村落はつながり、村民たちは丸木舟で往来していたと考えられ、発掘された文物もほぼ同じ時代に属しているとのことです。この「田螺山遺跡」において、2004年から始まった北京大学や金沢大学との日中合同発掘調査で今から約6000年前のツバキ属の木の根が出土され注目されました。その後、この木の根はツバキ属の茶の木の遺物だと確認され、これまでに中国で発見された最も古い人工栽培の茶の木だということが判明しました。中国のお茶の栽培の起源は今から約3000年前だと言われていましたが、これらの発見により、その歴史は今から約6000年前にまでさかのぼることになります。
孫先生の「特別講義」の概要は次の通りです。
孫先生の熱心な特別講義を終えた一行は、次に隣接するドームに覆われた遺跡へと案内されました。発掘作業は現在も続けられており、一般参観者は立ち入り禁止の発掘現場に降り立ち、遺跡を間近にしての孫先生の説明に聞き入りました。発掘現場は湿地帯で地勢は低く水位が高いため、地下水が流れ込み、ポンプで汲み上げていました。
次に、一行は遺跡ドームに隣接する別棟にある発掘文物の修復現場に案内されました。鉆探調査(ボーリング調査)で発掘された約7000年前の多種多様な遺物が所狭し、と並べられており、一行はそれらの保存状態の良さに驚くと同時に、これらの遺物が厚さ2mの粘土層の水成堆積層に閉じ込まれていたという考古学上の幸運な状況を改めて理解することができました。鉆探調査は昨年の西安訪問で実習体験した「洛陽鐕」と同じ掘削方法で、ここでは直径10cm程のビニールパイプを繋ぎ合わせて利用した機械掘りのため、土壌調査だけでなく、様々な植物種実、動物骨、魚貝殻類の自然遺物が豊富に出土しているとのことでした。
午前11時半、田螺山遺跡の見学を終えた一行は昼食のため、孫先生の地元・慈渓市にあるレストラン「農家海鮮」に向かいました。孫先生ご推薦の地元では有名なレストランとのことで、店内一階には豊富な魚介類が並べられていました。いつもの薄いビールで喉を潤おしつつ、地元の田舎料理を味わっている内に、大きな芋虫のから揚げのようなものが出てきました。孫先生は全員に試食するようにとのことでしたが、これが蝉の幼虫だと分り、思わず悲鳴が上がりました。恐る恐る挑戦した女性お二人は一口でNGでしたが、孫先生と中国側ガイドのお二人、運転手は美味そうに食していました。
午後1時15分、賑やかな昼食を終えた一行は越窯青磁の発祥地として知られる「上林湖越窯遺跡」へと向かいました。慈渓市内から東南15kmの風光明媚な上林湖の湖畔にあって、国家の重要文化保護財産となっています。上林湖の周囲には120カ所の越窯遺跡があり、東漢時代から南宋初期まで千年以上に渡って越窯青磁が大量に生産され、明州港(現在の寧波)を通して日本、韓国、イラン、アラビア等、10カ国以上の国に輸出されていました。
一行は上林湖越窯遺跡の責任者の出迎えを受け、湖畔から遺跡への渡り船に乗って、遺跡へと向かいました。足場の悪い遺跡入口を登って行くと、いくつもの四方区画を1m程掘り下げられた発掘現場には無数の陶器片が散らばり、区画の周囲は壺のような陶器が積み重ねられていました。責任者の説明によりますと、失敗した陶器類は当時の作業場の壁として利用されていたとのことでした。想像を絶する大量の破棄された陶磁器片や煉瓦類が辺り一面に転がっており、“露天の青磁博物館”と称される意味がよく理解できました。一行の誰かがお気入りの青磁片を持ち帰っても良いかとの質問に対して、責任者は即、元の位置に戻すようにとのことでした。山裾に設置された越竈の登り釜を見学した一行は、船で湖畔戻り、近くにある浙江省文物考古研究所・上林湖工作処へと案内されました。
工作処では、現地で発掘された貴重な青磁器類を直に手にとり、その感触と色彩を観察することができました。青磁は窯を使って素焼きの土器を焼成する際、燃料の灰が器物の表面に降りかかるとガラス化して自然釉を形成しますが、中国では早くも商時代前期に人工的に釉薬を施した焼き物の生産が始まりました。灰釉と呼ばれるこの釉薬が改良を重ね、ムラのない滑らかな青い色をしているのが青磁ですが、特に越窯の青磁は釉の色深くて透明感があることで知られ、一行は“お宝”の感触を存分に楽しんでいました。
午後2時40分、工作処での青磁鑑賞を終えた一行は杭州市蕭山にある「跨湖橋遺跡博物館」へと向かいました。予定時間よりかなり遅くなったため、孫先生は博物館と連絡をされると閉館時間が午後5時なので、ともかく急いで来るようにとのことでした。慈渓市から杭州市までは約180kmもあり、運転手を急がしての杭州戻りとなりました。
午後5時10分、杭州市内の渋滞を潜り抜けて何とか博物館に到着すると、博物館の責任者が一行を待ち受け、遺跡へと繋がる博物館入口から地下道へと急ぎ足で案内されました。地下ドームのような暗闇の先に「蕭山八千年」の電光文字が掲げられた下に、蛍光灯のような灯りの付いたガラス張りの小さな四角小屋が浮かんで見えました。一般の参観者にはその小屋上から見下ろす足場が設置してありましたが、一行は今回、特別の計らいで小屋の中にある2003年に発見された“丸木舟”を間近で見学することができました。小屋には温度と湿度をコントロールする最新の計測器が設置され、発見当時のままの状態で保存されていました。次いで責任者の案内で貸切り状態の館内の展示物を急ぎ足で見学しました。
チャイナネットの2002年4月の記事によりますと、「跨湖橋遺跡」は古代湘湖の湖底に埋められていたもので、一番下は現在の海面より少し低く、文化層は九層からなっており、堆積の最も厚い所はわずか1.2mです。その上の部分は厚さが4.6mに達する灰黒色の堆積層に覆われており、そのために遺跡内の文化財は大変よく保存されました。しかし、半世紀近くにわたって、れんが工場が土を採取し続けたため、遺跡はひどく破壊されました。2001年5月から7月にかけて、浙江省文物考古研究所と蕭山区博物館によって救出のための発掘調査が行われ、多数の陶器、石器、骨、木器と動植物の遺物が出土し、そのうち最も価値のある陶器は復原された物だけでも約150点に上ります。出土した陶器は、数片の貝殻をはさんだ陶器や砂混じりの釜、せいろう類、食器を除いて、残りは皆、きめの細かい泥状の炭をはさんだ陶器でした。陶器の形は丸底で、足が輪の形になっている器を主とし、かけらの中にはごく少量の小さな平底のものありますが、河姆渡文化の末期により多く現れた鼎などの三足の器は発見されていません。この遺跡の生存年代を判断するため、文物考古研究所は前後して五つの地層から出土した多数の木の標本とドングリを中国海洋第二研究所及び北京大学考古文博学院実験室に送って炭素14による測定の結果、この遺跡の年代は今から約8000年から7000年前のものであり、明らかに7000年の歴史を持つ河姆渡文化より早い時期であることが判明しました。
午後6時、博物館の見学を終えた一行は、多忙なスケジュールを無事終え、Cameronご夫妻とのお別れを惜しみつつ、古代舟を模った博物館前で最後の記念撮影をしました。
午後7時半、Cameronご夫妻をお見送りの孫先生達と別れた一行は、洪さんの提案で夕食は四川料理にすることにしましたが、残念ながらご推薦の店は閉鎖されており、杭州市内の別のレストラン「名塘月色」での遅い夕食タイムとなりました。恒例の薄いビールで喉を潤おし、辛いマーボー豆腐や坦々麺を思い浮かべながら、日・中・豪の「稲作のルーツ」を訪ねた1泊2日の旅の思い出が話題となりました。
午後9時、この日から連泊となる高層の5つ星ホテル「三立開元名都大酒店」にチェックインしました。杭州市内の北部にある比較的新しい高層のホテルで、周囲は古いレンガ造りの街並みを取り壊し、新たな高層マンションが立ち並ぶ開発途上地区でした。
4日目 「田螺山遺跡」&「上林湖越窯遺跡」「跨湖橋遺跡」
株式会社 毎日エデュケーション
生涯学習事業部 「毎日エクステンション・プログラム」 係
〒103-0025 東京都中央区日本橋茅場町2-12-10
PMOEX日本橋茅場町 H1O日本橋茅場町 207
電話番号 03-6822-2967