この日も曇りで朝から気温28度前後の蒸し暑い天気となりました。朝食を済ませた一行は、午前8時20分にホテルを出発し、当初の予定を変更して「四川博物院」へと向かいました。開館時間の午前9時前に到着し、緑の木々に覆われた広い敷地内の駐車場から正面入口の広場まで進むと、そこには珍しい「流動博物館」と書かれた大型トレーラーが停車していました。どうも日本では見たことのない移動式の博物館のようでした。
「四川博物院」は2002年に閉鎖された「四川省博物館」が移転、新築されて2009年5月に新たにオープンしたものです。館収蔵品26万点から選ばれた千点ほどが常時、展示されています。建物入口の階段を上ると、そこは2階で、展示室は3階・2階・1階にあります。3階は「四川民族文物館」(彝族・羗族・チベット族・苗族・土族)、「工芸美術館」(玉器・金銀器・漆器・蜀錦等)、「万仏寺石刻館」(成都市万仏寺遺跡発掘石仏等)、「蔵伝仏教(チベット仏教)文物館」(金銅仏・絵画・典籍等)の4室、2階は「張大千芸術館」(四川出身の近代書画家)、「書画館」(唐代から現代にいたる絵画)、「陶瓷館」(新石器から清代の陶磁器)、「青銅館」(周・戦国期の四川省内遺跡遺物)の4室、1階は「四川漢代陶石芸術館(一)」、「四川漢代陶石芸術館(二)」(四川省内遺跡遺物)の2室となっています。
一行は10の展示室の中から、王先生の案内で「四川民族文物館」「工芸美術館」「書画館」「陶瓷館」「青銅館」を選び、やや急ぎ足で巴蜀文化の文物を中心に鑑賞しました。
次いで、一行は1階の「四川漢代陶石芸術館(一)」へと向かいました。ここは、早稲田大学の稲畑先生からも是非、見学しておくようにと言われていた「羊子山漢画像磚」が展示してあります。1953年に発掘された画像磚(レンガ)は、今から約2000年前の後漢時代の民衆の様々な生活場面や歴史上の故事、神話や伝説等、多岐にわたっており、当時の人々の生活や風習・観念を知る貴重な文化遺産となっています。
午前11時20分、一行は2時間半近い博物館の見学を終え、北東郊外にある「三星堆遺跡」の午後からの訪問を控え、急遽「成都パンダ繁育研究基地」を見学することにしました。成都市東北部の斧頭山の麓に位置しており、成都市内から約10km離れています。1990年にオープンした総合的なパンダ繁殖保護研究センターで、パンダ研究専門家とパンダ繁殖設備を有し、総面積は36・5ha、最先端の技術でパンダの人工繁殖に取り組み、数を増やすことに成功しています。現在は人工飼育したパンダを野生に戻す研究も行われています。中国政府が自国のシンボル的存在のパンダを救うために努力した結果、近年では野生のパンダも増えつつあり、現在では、この10年間で1番多い数の2,000頭までに増えたとのことです。国際自然保護連合(IUCN)が「絶滅危惧種」から外して「危急種」に分類したことやパンダの赤ちゃん23頭誕生のニュースが一行の帰国後に、日本でも報道されていました。竹林に覆われた園内は内外の大勢の観光客が徒歩で列をなしている中、一行はパンダの飼育放牧区まで10元の電動カートを利用して進みました。年齢によって区分けしてり、自然の中で戯れる姿に一行は歓声をあげ、可愛い姿にしばし癒されていました。
午後1時半、予定外のパンダ見学を堪能した一行は、成都市の北東郊外・約40キロにある「三星堆博物館」へと向かいました。途中の幅広い道路の沿線は、工業団地のような大型工場や建築類が延々と立ち並んでおり、発展する成都市を象徴するもう一つの様相を呈していました。やがてマイクロバスは鴨子河の流れを前に左折し、午後2時半に「三星堆博物館」に到着、敷地内にある「三星堆宝境斉」という昼食の時間帯外で客の少ない餐庁での昼食となりました。早速、軽いビールで喉を潤おし、パンダの動画写真をお互いに見せ合いながらの遅い昼食タイムとなりました。
午後3時半、昼食を終えた一行は花と緑に覆われた広大な敷地を通り抜け、「三星堆博物館」へと進みました。入口で現地ガイドの張さん、劉建軍さんが王先生と何か慌ただしく相談している模様でした。考古研究院の王先生の同行であっても、入場券が必要とのことで、張さんが急ぎ足で正門の入場券売り場に向かっていきました。その間約20分間、一行はレプリカの青銅像のある入口コーナーで待たされました。5年前の敦煌から西安への旅途中、「法門寺」見学の際にも同じようなトラブルがあったことを思い出していました。
ガイドの張さんが小走りで戻ってきて、やっとの思いで待望の巨大な「青銅縦目仮面」や「青銅神樹」等と対面することになりました。「三星堆遺跡」は1931年に発見され、戦時中の混乱を避けるために一端は埋め戻されましたが、数十年に渡る学者達の努力によって、遺跡面積は12平方kmと断定されました。1986年からの本格的な調査によって大量の金器、青銅器、玉器、陶器、象牙などが発掘され、世界的に大きな話題となりました。博物館の展示場面積は4000平方mあり、千点以上の展示物があります。特に注目されるのは、目が飛び出したような独特の造形の仮面「青銅縦目仮面」や高さ3.96mもある「青銅神樹」、2.62mの「青銅立人像」等です。これらは黄河文明とは明らかに異なっており、殷末に長江上流域で発達した文明の遺産と推定されています。
1998年春に世界に先駆けて日本で三星堆出土の遺物展覧会が開催された当時、地上に降り立った宇宙人かインカか等、その奇抜な文物に日本中が驚かされましたが、今回、一行はその後の発掘調査による三星堆の出土物のほぼ全貌を見学することができ、改めて中国古代文明の多様さを学ぶことができました。4世紀に古蜀について唯一書かれたという「華陽国志」には「蜀侯蚕叢有り、其の目は縦にして初めて王を称す」との記述があり、稲畑先生の説によりますと、この巨大仮面の瞳が飛び出していることを「目縦」として伝承され、古蜀の伝説の始祖である「蚕叢」の形象ではないかとのことです。
次いで一行は同博物館の敷地内にある「文物保護修復展示中心」へと進み、「青銅神樹」が展示中という「黄河と長江流域商代青銅文明展・青銅的対話」を見学しました。四川省で発掘された商代晩期の青銅器類以外にも、河南博物館や陝西歴史博物館等で以前に見学したと思われる各種の「尊」や「鼎」等の青銅器の逸品の数々が展示してあり、最終コーナーにアニメ映画で学習した「青銅神樹」がライトに照らせれ、浮かび上がっていました。
午後5時半、一行は博物館から西へ20分程離れた田園地帯に位置する「三星堆城墻・祭祀坑保護展示区」に向かいました。展示区の入口では王先生の旦那さんの冉宏林先生が笑顔で出迎えてくれました。冉先生も北京大学考古文博学院の出身で、現在は「三星堆遺跡工作処」に常駐され、主に漢墓からの発掘文物の修理・修復に携わっておられるとのことでした。
「三星堆遺跡」は1986年7月、レンガ工場の土取りによって先ず、一号坑が発見されました。地面に約4.5×3.4mの長方形に坑を掘ったもので、深さは約1.5m、壁と底はほぼ垂直に整っています。中には人頭像や大型の青銅製品や大型の玉器や、黄金の杖が入っていました。二号坑は1986年8〜9月発掘され、一号坑の東南約30m。坑の口は長さ5.3m、幅2.2〜2.3m、坑の底は長さ5m、幅2から2.1mで、坑の深さは1.4〜1.68mです。坑の中はほぼ3層に分けられており、最上層には象牙が坑全体を覆うように敷き詰められ、その下に大型の青銅製品“立人像”“人頭像”などが置かれ、最下層には小型の青銅製品や玉石器などが大量の草木の灰とともに投げ込まれていたとのことです。現在はアクリル板で覆われた一号坑、二号坑の上から、発掘当時を再現した姿を見ることができました。
午後7時半、三星堆遺跡の見学を終えた一行は成都市内へと戻り、四川博物院に近い「龍森園」での遅い夕食タイムとなりました。ここは火鍋料理で有名な店で、店内は既に大勢の客で賑わっていました。席に案内されると、既に鍋が設えられ、火鍋の2色のスープがグラグラと沸いていました。メインの赤いスープ「紅湯(ホンタン)」には大量の山椒と唐辛子、もう一方の白いスープ「白湯(パイタン)」には、トマトの薄切り等が浮かんでいました。劉建軍さんによりますと、辛い味の赤いスープの合間に、あっさり味の辛くない白いスープを味わい、口の中を休めるとのことでした。
賑やかな隣席にならって、一行も45度?の白酒で乾杯し、タブレットのメニューで注文した牛や豚の内蔵、鴨の腸、川魚の薄切り、豆腐、マコモダケ、レタス等々、多彩な食材が次から次へと運びこまれてきました。強烈な辛さと香ばしい胡麻油のタレを交互にしながら珍しい食材を目いっぱい味わいました。口の中が次第にヒリヒリして、軽いビールがまるで水のように感じられたのは筆者だけだったでしょうか。
午後9時半頃、四川火鍋を満喫した一行はホテルに戻り、翌日のチェックアウト時間を確認してのお開きとなりました。
3日目 「四川博物院」「パンダ繁育研究基地」&「三星堆遺跡」
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