この日も日中36℃の天気予報で、朝から28℃前後の蒸し暑い晴れた朝でした。一行は午前7時40分までに各自チェックアウトを済ませ、ロビーで待機していました。劉建軍さんは朝食がまだとのことで、スーツケースを筆者に預け、急ぎ足で食堂に行きました。暫くするとロビーは韓国人ビジネスマンの団体で混み始めました。午前8時になって、ガイドの郭さんはバスが既に到着しているので出発しましょうとのこと。劉建軍さんがまだ食事から戻っていないと告げると、劉建軍さんは既にバスに乗っているとのこと。慌てた筆者は自分のスーツケースだけを引きながらバスに乗ると、運転手の王さんが一行のスーツケースを最後部に積み上げていました。席についていると劉建軍さんが最後に走ってバスに乗り込み、ようやくスタートしました。この日は武漢市から北西へ約180キロメートルの随州市に向かっての約2時間半の長旅でした。高速道路は渋滞もなく、武漢郊外の湖沼は大小様々な形でまるで河川のような広大な湖も見られました。
午前9時頃、バスは孝感市のパーキングエリアで休憩タイムとなりました。劉建軍さんは売店で日本人には珍しい生の蓮の実を購入し、一行に試食するよう手渡ししていました。暫くすると劉建軍さんは自分のスーツケースが後部座席に無いことに気付き、大騒ぎとなりました。筆者の不注意でロビーに置き忘れです。ホテルに緊急電話をして置き忘れたまま預かっていることが判明し、一安心でした。
午前10時半過ぎ、快晴の青空の下、緑の丘陵地帯を縦走する高速道路からはやがて「炎帝神農」の大きな看板が見え始め、バスは随州口で降りて随州市内へと進んで行きました。随州市は古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人で、医薬と農業を司る神である「炎帝神農」の生誕地とされています。その随州市は淮河を挟んで新しい高層マンション群が立並ぶ新市街地と旧市街地に大きく分かれていました。
一行は旧市街地にある「随州博物館」へと向かいました。
午前11時、「随州博物館」に到着した一行は王女史の先導で博物館の地階にある「随州文物考古研究所」へと向かいました。薄暗い通路を進んで行くと右側奥に収蔵室があり、研究所の責任者・劉暁華先生が笑顔で待ち受けておられました。室内には西周早期の葉家山墓地や叶家山墓地から出土した多数の青銅器や土器類が棚一杯に陳列してありました。
大小様々な青銅器には緑青の色が一般的な深緑色や黒色以外に、群青色があることに気付いた一行は、その理由を劉先生に聞きました。説明によりますと概ね次のようでした。
先ず、銅は空気中で酸素、二酸化炭素、水分、塩分と反応して種々の化合物になり、この化合物を「緑青」と呼んでいます。青銅の色はこの緑青の色ですが、銅や青銅の表面に緑青ができると、それ以上腐食が進まないので耐久性が高まります。古代の青銅器が形を保って発掘されるのは、このためです。一方、鉄の錆びにはその効果がないので発掘された鉄器はぼろぼろになっています。青銅は銅と錫の合金で錫の量が少ないと赤銅色であり、錫を混ぜる量が増えるに従って黄みが増して黄金色になり、一定以上増やすと白銀色になり、また、空気中で酸化されると青緑色になるとのことでした。また、この時期、銅の生産が減少するに従って土器の生産が増え、青銅器とともに土器類が大量に出土するようになったとのことでした。
この後、一行は「随州博物館」の「曽候乙墓」の展示室を見学しました。前日の湖北省博物館では駆け足での見学でしたが、ここではじっくり見学することができました。
午後1時過ぎ、随州市内のレストラン「新曽都食府」での遅い昼食となりました。レストランの入口には赤い風船状アーチに「祝・愛女○○十歳生日快楽」の文字が掲げられ、何組もの誕生会の祝宴が行われている模様でした。早速、劉さん達のメニュー選びが始り、次々と新たな地元料理が運びこまれました。一行は冷たいビールで喉を潤おしつつ、餃子や野菜料理、スープ等を味わっていました。考古学ツアーのもう一つの楽しみは、こうした珍しい地方の中華料理が味わえることだとの話も出ました。
午後2時15分、昼食を終えた一行は「曽候乙墓」の発掘現場である「擂鼓墩古墳群」へと向かいました。曽候乙墓は戦国時代初期の諸候の「ト」字形の竪穴式墓で、南北16.5メートル、東西21メートル。1977年9月に随県東団破にある人民解放軍の英舎を拡張するため山腹に発破をかけたところ、地下の褐色の泥土の中から墓の一部が発見されました。当初はあまり重視されず、車馬坑から出土した青銅製の文物類は廃品として売り払われていました。1978年になって本格的に発掘が開始され、墓の排水作業の結果、編鐘が水面に露出しました。墓の中からは大量の青銅器の礼器や楽器、兵器、金器、玉器、車馬器、漆器、木器・竹器等、15,400余点の貴重な文物が発見され、世界中を驚かせました。
館内は規模を知るためか、発掘当時の墓室が復元されていましたが、発掘当時の墓室や墓蓋の巨木片が展示してあるだけで、文物の展示はほとんどありませんでした。玄関前広場の見晴らし台からは随県の長閑な田園景色が広がっていました。
午後2時半過ぎ、一行は次の訪問地、天門市へと急ぎました。随州市から南西へ約170キロメートル、2時間の長旅でしたが、高速道路は流れも順調で、運転手の王さんは時速100キロで飛ばし続け、一行はいつしか眠りについていました。
天門市郊外の高速道路出口には、王女史から到着時間遅れの連絡を受けていた「石家河遺跡考古隊」のスタッフ(何さん?)が赤い乗用車で待機していました。彼の先導で先ずは「石家河文化考古研究センター」へと向かいました。午後5時、天門市内の土器を模ったと思われる異様な建物のセンターに到着した一行は、スタッフから早速、石家河古城及び広大な考古遺跡公園の地図や出土した文物、玉類等についての説明を受けました。しかし、ここは一部の青銅器と土器類が展示してあるだけで、楽しみにしていた2016年度の「全国10大考古新発見」の目玉である玉器類は発掘後、変色したため非公開とのことでした。
一行は発掘現場へ急ぐこととし、再び赤い先導車で天門市内から約16キロメートルの農村へと向かいました。石家河古城址の西側に位置しており、狭いガタガタの農道を行くとビニール屋根に覆われた鉄柵のある発掘現場に辿り着きました。ここの発掘現場は土器類の捨て場のようで、小さな土器の欠片が辺り一面に散らばっており、現在も発掘が続けられているとのことでした。
次いで、もう一箇所の発掘現場へと急ぎました。農家の敷地内にあって、鶏達に熱烈歓迎されながら坂道を登っていくとビニール屋根に覆われた鉄囲いの発掘現場があり、「印信台遺跡」の看板が吊るしてありました。一行は発掘現場の中まで案内され、スタッフから発掘状況の説明を受けました。ここは人工の黄土台基があって、陶缸遺跡、土坑墓、瓮棺葬等の遺跡が発掘されたとのことで、ここも現在、発掘工作が続けられていました。
「天門石家河遺跡」は1990年に西周代の古城址が発見されました。長江中流域において敷地面積が一番広く、新石器時代のものを完全に保存する遺跡とされ、中心地域に位置する古城址は中国では最大規模を誇り、保存も完全な遺跡とされています。紀元前2500年から紀元前2000年にかけて栄えた石家河文化は、屈家嶺文化を継承しており、同一視される説もありますが、環濠集落から発展した大規模な城郭都市が築かれている点や原始的な都城を構成していることから屈家嶺文化とは区別されています。文化的には屈家嶺文化の特徴的な遺物である彩色紡錘車を継承しており、灰陶等の陶器、陶製の塑像、翡翠の玉器、更に銅鉱石や銅製品も出土しています。
午後6時半、石家河遺跡の見学を終えた一行は天門市内のレストラン「天門大酒店」での夕食となりました。ここは個室ではなく、大衆レストラン風で大勢の客で賑わっていました。劉建軍さんがいつも通りメニュー選びをしている間、ガイドの郭さんと王女史は食器を大きな器で熱湯消毒し始めました。最初は何をしているのか不思議に思いましたが、紙ナプキンで拭くよりも安全とのことでした。この日は朝から約350キロメートルに及ぶ長旅の疲れで、現地の42.8度の白酒「苦莽酒・毛舗」で乾杯し、地元料理の辛味ある魚料理やスッポン料理、煮込みスープ等、この夜も珍しい地方料理を堪能しました。
午後9時15分、この日のホテル「天門華泰飯店」にチェックインしました。豪華なロビーは閑散としていて宿泊客らしい姿は見当たりませんでしたが、劉さんの話では杭州の華泰実業有限公司という財閥が投資している豪華ホテルとのことで、ロビーの正面には飛躍を象徴する勇ましい闘牛の銅像が設置されていました。一行は翌朝のチェックアウト時間を再確認し、長旅の疲れを癒すため、早々にお開きとなりました。(辛苦了!)
3日目 「随州博物館」「曽侯乙墓」「天門石家河遺跡」
5日目 「黄鶴楼」「楚河漢街」「湖北省博物館」「歓送夕食会」
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