この日は気温23度前後のやや蒸し暑い曇り空の朝。午前6時半からの朝食を済ませた一行は、各自、ホテル周辺を散策や表敬訪問の準備をして朝のひと時を過ごしました。成都の朝はまだまだ通勤の電動バイクが多く、乗用車と先を競うように交差点ダッシュを繰り返しており、小学校の校門前では大勢の父兄たちが児童を見送る日常風景が見られました。
午前8時30分、一行はホテルを出発し、今回の受入でお世話になった「四川省文物考古研究院」へと向かいました。成都市内の中心地に位置する研究院は、巨大なシンガポール系オフィスビルに隣接しており、入口には立派な看板が掲げてありました。
午前9時過ぎ、一行は秘書役の謝さんの案内で、研究院2階の会議室へと向かいました。今回初対面でお世話になる四川省文物考古研究院の高大倫院長が満面の笑みで一行を出迎えてくれました。高院長の歓迎の御挨拶の後、この日の特別講義の講師役・万嬌先生と、この日から4日間の同行案内役をしていただく王彦玉先生の紹介があり、一行に記念として四川省の考古専門書籍とアニメCDが贈呈されました。
続いて日本側からは北京大学の徐天進先生のご紹介で今回の成都訪問が実現した経緯とメンバー紹介があり、これまでの中国考古学ツアーの体験レポートを提示しながら、今回の四川省の古代遺跡を訪ねる旅においても貴重な体験ができるよう期待している旨の挨拶があり、和やかな雰囲気の中での新たな出会いの場となりました。
懇談後、早速「特別講義」が開始されました。講師は中国古代文明が専門の万嬌先生で、我々一行のために『古蜀王国的伝説時代』と題するスライドを作成していただき、古蜀の伝説の王国から考古学的な年代序列、豪華絢爛な古蜀王国の祭祀用文物の新発見模様、王陵級大墓、古代成都平原での人口変遷等々について約1時間にわたって熱心に講義が行われました。特別講義の概要は次の通り。(但し、年代等、一部不明箇所等については他資料も参照にしましたので、ご了承ください。)
1)古蜀王国の伝説については、「華陽国志」に王朝交代として、蚕叢(カイコ)に始まり、柏灌(水鳥)、魚鳧(カモ)、杜宇(ホトトギス)と続き、その後、長江中流の楚の地から入った鼈霊(スッポン)が治水に成功して禅譲され、開明帝となった旨、記載されている。魚鳧から杜宇の交代後、開明帝への王位継承は、地域移動を伴っていたとされおり、三星堆遺跡から成都市内の金沙遺跡や船棺遺跡へは、勢力の交代とともに、同時に四川文明の遺跡が伝統的に引き継がれていったことを物語っている。
2)考古学的な年代序列としては、5300年前から4500年前の新石器時代の「桂園橋遺跡」から始まり、4500年前から4000年前の「宝敦文化」、4000年前から3100年前の「三星堆文化」、3100年前から2900年前の「十二橋文化」、2900年前から2500年前の「新一村文化」、2500年前から紀元前316年頃までの「晩期蜀文化」の流れとなっている。
3)豪華絢爛な古蜀王国の文物については、1986年に発掘された「三星堆遺跡」を始め、1934年の「月亮湾建築遺跡」、1985年の「十二橋遺跡」、2001年の「金沙遺跡」からは石器、陶器、玉器、青銅器等、様々な重要文物が発掘されたが、特に「三星堆遺跡」の小さな2つの坑からは多量の金器、青銅器、玉器、象牙等の祭祀用文物が大量に発掘され、その中には2m以上の折り曲げられた立人像や細かく切り離された神樹や縦目の巨大な獣面、黄金マスクの人頭像等が故意に破壊されて投げ込まれており、その理由については大きな謎となっている。
4)王陵級大墓については、1980年の「新都馬家傭木樽墓」、2000年の「成都商業街船棺墓」からは大量の副葬品とともに木彫りや大型の船形木棺が発掘され、特に2500年前の成都商業街の大型船棺墓は中国最大の船館・丸木棺古墳で、合葬・竪穴式であり、最大の棺は長さ18.8m、直径1.7mの巨大な楠の丸木棺である。
5)古代成都平原での人口変遷については、地形的に北は秦嶺山脈、東は長江の三峡、西はチベット高原、南は雲南・貴州の雲貴高原に囲まれて周辺国からは隔絶された四川盆地にあって、岷江を始めとする大河川が成都平原を扇状に流れており、度々、氾濫の危険に襲われたことから、その度に人々は北上したり、戻ったりを繰り返していたと考えられる。
引き続いて、2016年7月18日に三星堆一、二号祭祀坑発掘30周年を記念して開催された国際学術会議で初公開され、絶賛を浴びたという約10分のアニメ「神樹的伝説」を鑑賞しました。三星堆遺跡の二号祭祀杭から1986年8月に出土した青銅製の「扶桑樹」は、全高3.96m、樹高3.84mもあり、3階層になっている幹の各層に3枝ずつが張り出しております。それぞれの枝に1羽、全部で9羽の神鳥が留まっており、幹の頂上部分が欠落しているので、そこにも神鳥がとまっていたとすれば、ちょうど10羽になります。枝先には果実がなり、樹の下層には頭を下に向けた1頭の龍が這っています。
一方、中国の古典『山海経』に登場する「扶桑」とは、10の太陽が宿るところであり、太陽はそこから神鳥に乗って順番に空へ巡回に出かけることになっています。今回のアニメはこの古代神話を基に制作されたもので、10の太陽が神鳥に乗って順番に大空へと巡回に出かけますが、ある日、10の神鳥すべてが飛び立ち、1羽の神鳥を中心に天空をぐるぐる回り始めると、地上では自然災害が発生して荒廃が進んだことから、王はピラミッド型の祭壇を築き、祭祀用の豪華絢爛な祭器類を奉じて災害が収まるよう太陽神に祈願しますが収まらず、弓で神鳥を全て撃ち落とすよう命じました。逃げ回る神鳥を一匹ずつ撃ち落とした弓の達人が最後の10羽目の神鳥を狙い撃ちすると、最後の神鳥は枝に留って両羽を丸く抱え込み、自分を撃ち落とすと暗黒の世界になると警告しました。弓の達人は躊躇しながら撃ち落とすのを止めると、自然災害はたちまち治まり、地上は再び平穏を取り戻しました。王や民衆から弓の達人は絶賛を浴び、不要となった黄金の祭器類は全て取り壊されて坑に埋められた、といったストーリーのようでした。(以上、独断的解釈です。乞うご容赦!)
次いで一行は、万嬌先生の研究室に案内され、成都平原の古代遺跡で採取されたという米や粟類の標本を顕微鏡で確認させていただき、長江上流域の古代稲作文化について学びました。引き続き、研究院に隣接する子供達用の「文物医院・模擬考古体験館」に案内され、漢墓の3D画像やバーチャルカメラを使って仮想の考古体験をしました。しかし、バーチャルカメラでは一体、何を映し出しているのか筆者にはよく理解できませんでした。
正午になり、一行は高院長と女性スタッフ3人とともに、隣接する近代的なシンガポール系オフィスビル内の四川料理店「巴國布家」での昼食タイムとなりました。過剰接待禁止中の公務員ながらも日本からの新しい友人の訪問を歓迎するためと、高院長は密かに52度の白酒を持ち込まれました。夜の歓迎夕食会もあることから、やや控え目と称しながらも全員で乾杯し、一気に盛り上がりました。高院長は関西大学に1年ほど在籍された他にも、何度か展覧会等で日本を訪問された経験があるとのことで、片言の日本語もでき、互いに賑やかな雰囲気でテーブルいっぱいの四川料理を堪能しました。
午後2時、昼食を終えた一行は王彦玉先生の同行で「金沙遺跡博物館」へと向かいました。小柄な王先生は北京大学考古文博学院出身で、5年前の「敦煌から西安へ・河西回廊の仏教遺跡を訪ねる旅」で同行していただいた現・北京大学考古文博学院院長の杭侃先生の教え子とのこと、更には16歳で北京大学に飛び級入学したという話に一行は驚喜しました。
「金沙遺跡」は2001年に成都市西郊の住宅開発に伴う下水道工事中に発見されました。その後の発掘調査によって、基本確認部分だけで5平方kmにも及ぶ大型遺跡であることが判明し、金器、青銅器、玉器、石器、漆木器、陶器、象牙、動物骨等が大量に発掘されました。紀元前1200〜500年(殷後期〜春秋)頃のもので、2006年に中国重要文化財に指定されました。「三星堆遺跡」と並び、四川省における古蜀文化を代表する重要遺跡です。
2005年に「金沙遺跡」の出土文物の保護、研究、展示を目的とする「金沙遺跡博物館」が建設されました。博物館は遺跡館・陳列館・文物保護中心からなっており、出土品には、金箔の「太陽神鳥」に代表される金器や「四節玉」に代表される玉器等の逸品が展示され、「青銅人頭像」で特徴ある「三星堆遺跡」とはまた異にした特徴を持っていることで知られています。
一行は先ず、「金沙遺跡」に隣接した「金沙遺跡博物館」へと向かいました。遺跡館には新石器時代の成都平原が復元されており、岷江の河岸に沿って大きな象の群れや狩猟・村落風景、土壁の家とその家族の生活模用が再現されていました。陳列館には新石器時代の陶器類をはじめ、様々な金の装飾品や玉器類が棚一杯に陳列されていました。
「金沙遺跡」の目玉である黄金の装飾品「太陽神鳥」は直径わずか12.5cm、重さ20gで、透かし彫りの切り絵のようになっています。頑丈な円筒形アクリルケースの中に収められ、周囲から鑑賞できるようにゆっくりと時計回りと逆に回っていました。四季を表す頭と足が前後で繋がった4羽の神鳥が描かれており、12カ月を表わす12の光芒を発する太陽の周りを反時計の方向に飛んでいる構図となっています。稲作を営む古蜀人の太陽と鳥への崇拝とともに、古代人の宇宙観を表わしているとされています。この「太陽神鳥」の図案は2005年に「中国文化遺産」のマークとして選定されました。他にも三星堆よりも小さい黄金仮面や金面、黄金冠と黄金杖、蛙や虎を模った玉器類等、多種多様な貴重な文物が所狭し、と陳列されていました。
次に一行は大型ドームに覆われた「金沙遺跡」へと進みました。現在は残念ながら発掘工作が行われている様子はなく、貴重な文物類が発掘された個所を示す立看や発掘した年代別の地層があちこちに表示してあるだけの状態でした。不思議なことに、遺跡全体を見回しても乾燥していて湿気が全くありませんでした。昨夏に見学した「田螺山遺跡」や「河姆渡遺跡」では湿気が多く、水溜りもあちこちで見られました。王先生の話では発掘する時はポンプで水捲きをするとのことでした。博物館での見学が長引き、午後5時の閉館時間が大幅に過ぎていましたが、王先生達のお陰で貸し切り状態となり、ゆっくりと見学することができました。
午後6時半、一行は「歓迎夕食会」の行われる成都旧市街地にある老舗ホテル「成都書院」に向かいました。同書院の敷地内には四川料理で有名な「聚珍園」があり、既に高院長と女性スタッフ達が待ち受けていました。新たに日本語の話せる女性も加わり、和やかな歓迎夕食会となりましたが、この新たな女性とは、何と高院長のお嬢様とのことで、日本語は米国留学中に第二外国語の日本人教師から学んだとのこと。専門は何故か猿類の研究とかで、現在はタイ国にある日系の猿類研究施設で働いているとのこと。一行は彼女の特異な専門分野に驚きを隠せませんでした。高院長からは7月に開催された三星堆発掘30周年記念の国際学術会議の模様をお聞きし、三星堆一、二号に次いで、幻の三号祭祀坑を発見するため、世界の英知の結集を訴えたとのことでした。
四川料理は山椒のしびれる味マーと唐辛子の辛いラーが適度に混ざった独特の味で知られていますが、一行は午前中の表敬訪問の印象や金沙遺跡の豪華絢爛な文物類、成都市の超近代的な発展ぶりを話題にしつつ、2.5度の軽いビールとともに、麻婆豆腐や汁気のない本場の坦々麺等、昨夏の杭州で味わい損なった四川料理の味を堪能していました。
午後9時過ぎ、一行は高院長始めスタッフの皆さんの暖かい歓迎ぶりに感謝しつつ、和やかな「歓迎夕食会」はお開きとなりました。
2日目 「特別講義」「金沙遺跡博物館」&「歓迎夕食会」
3日目 「四川博物院」「パンダ繁育研究基地」&「三星堆遺跡」
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